1953年の劇場公開時にニューヨークの批評家たちから好評を得ながらも興行的には振るわず、監督自らが「アマチュアの仕事」として嫌い、後年プリントを買い占め人目に触れることを封印してしまったスタンリー・キューブリック監督の劇場初公開作品『恐怖と欲望』が、アメリカ公開から60年を経た今、日本で初めて劇場公開される(アメリカでは、2012年3月にNYリンカーン・センターで開催された「ニュー・ディレクター/ニュー・フィルムズ」で上映。キューブリック監督の生前も、本人の意思に逆らう形で、1991年のテルライド映画祭(コロラド)や1994年にはNYフィルム・フォーラムで上映されたことが伝えられている※)。
この作品を封印したキューブリック監督の気持ちもわからないではない。あまりにも文学的な台詞、一人二役の配役を含むわかりずらいキャラクター造形、抽象的な物語設定などは、現実的な諸条件の制約や経験上の未熟さもあったに違いないが、確かにアマチュア的と言えるかもしれない。しかし、まさにそうしたアマチュア的挑戦こそが、後年のキューブリック映画のナラティブを構築する上での有意義な実験だったと観ることが出来るし、スチール・キャメラマンとしてキャリアをスタートさせたキューブリックならではの美しく、力強い画面の構成力は、この時点で遺憾なく発揮されている。
そもそも観客にとっては、巨匠の初期の作品を観るということ自体に、映画的妄想を掻立てる楽しみがあるものだが、キューブリックが嫌ったのは、フィクションとしての未熟さが、自らの視線を生々しく晒してしまっていることではないかと思う。それは、本作のタイトルが示す通り、"恐怖"と"欲望"という2つのテーマに向けられた視線であり、より具体的に言えば、"戦争"と"エロティシズム"という生々しいテーマに対する距離の取り方だ。この2つのテーマは、後年のキューブリック作品( "戦争"は『突撃』(57)や『フルメタル・ジャケット』(87)で、"エロティシズム"は『ロリータ』(62)や『時計仕掛けのオレンジ』(71)、『アイズ・ワイド・シャット』(99) )で本格的に展開されるテーマとなるだけに、様式美に昇華される以前の"リアル"な自分の視線が作品の中に"ドキュメント"されてしまっていることが許せなかったのではないか。
個人的には、この作品を2013年の今、ポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』(12)の後に観ることが出来たことが興味深いことに思えた。それは、『恐怖と欲望』が、朝鮮戦争(1950〜1953)の直後に作られた"戦争後遺症"についての映画であり、それはまさに『ザ・マスター』が描いた時代、そのものでもあるからだ。もちろん、ポール・トーマス・アンダーソンが『恐怖と欲望』を観ているかどうかということは全く重要ではない。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(07)を介して、いよいよキューブリック的宇宙へと拡張するポール・トーマス・アンダーソンの作品が、"戦争後遺症"という現代アメリカ映画史の重要な一点において、キューブリック最初期の作品とメビウスの輪のように繋がっているように思えるところが興味深いのだ。
そして、この時期にキューブリックが"戦争後遺症"についての映画を撮っていたということは、如何にこのテーマがアメリカの映画作家たちにとって不可避なテーマであるかということを改めて認識させてくれる。本作の脚本を書いたハワード・サックラーがコンラッドの「闇の奥」から影響を受けているのは間違いないとしても、この作品を以て、コッポラの『地獄の黙示録』(79)を引き合いに出すのは、それこそキューブリック監督の本意ではないだろうから差し控えるとして、あの川下りのシーンが喚起する映画的イメージの広がりは、むしろ、チャールズ・ロートンの『狩人の夜』(55)などのフィルム・ノワール的美意識への親和性を感じさせてくれる。もちろん、2年後には『非情の罠』(55)、その翌年には『現金に体を張れ』(56)というフィルム・ノワールの傑作と呼ばれるようになる作品をキューブリックは撮ることになるのだから、キューブリック監督には大変申し訳ないが、観客にとっての『恐怖と欲望』は、失われていたパスルの一片がピタリとその位置に嵌る、心地良さを味わわせてくれる映画であると言わざるを得ない。
※参考:
「キューブリック全書」デイヴィッド・ヒューズ(フィルム・アート社)
『恐怖と欲望』
原題:Fear And Desire
5月3日(金)より、オーディトリウム渋谷ほか全国ロードショー
監督・製作・撮影・編集:スタンリー・キューブリック
脚本:ハワード・サックラー
音楽:ジェラルド・フリード
出演:ケネス・ハープ、フランク・シルヴェラ、ポール・マザースキー、スティーブン・コイト、ヴァージニア・リース
© Films Sans Frontieres
アメリカ/1953年/61分/モノクロ/4:3 スタンダード
配給:株式会社アイ・ヴィー・シー
物語
どこかの国で起こっている戦争。爆撃を受け敵地の森へ墜落した4人の兵士たちがいた。空軍の上官コービー中尉(ケネス・ハープ)、ベテランのマック軍曹(フランク・シルヴェラ)、若い新米のシドニー二等兵(ポール・マザースキー)とフレッチャー(スティーブン・コイト)二等兵。彼らは森に沿って流れる河を、筏を作り下って脱出することを計画し、その対岸に敵軍のアジトを発見する。マック軍曹は奇襲をかけることを提案するが、コービー中尉に反対される。翌日、地元の女性(ヴァージニア・リース)に姿を見られた 4人は彼女をベ ルトで木に縛り付け拘束する。女性の見張をしていたシドニー二等兵は女性に欲情し犯そうとするが、彼女は彼を振り払って逃げ出す。敵に知らされることを恐れたシドニー二等兵はとっさに腰につけた拳銃を抜き、彼女を射殺してしまうのだった・・・。