2012年7月27日

『ゴッド・ブレス・アメリカ』ボブキャット・ゴールドスウェイト


宣伝イメージで参照されている『キック・アス』のようなアクション映画では全くないが、内容的にはこちらの方が過激。世の中に絶望した中年男フランク(ジョエル・マーレイ)と謎の女子高生クロエ(タラ・ライン・バー)の逃避行を描く本作は、"オフビートな『俺たちに明日はない』"と形容したくなるロードムービーだが、「アメリカン・アイドル」、「GREE/グリー」といったTV番組やディアブロ・コディ、リンジー・ローハンといったハリウッドのお騒がせセレブ系映画人を直接的に槍玉に挙げる一方で、キリスト教原理主義批判を展開する『ジーザス・キャンプ』や食物が作られる過程の工業製品化を批判する『フード・インク』といった真っ当なドキュメンタリー映画にエールを贈る、"シネフィル"というよりは、根が大真面目な"ムービーゴーアー/moviegoer"擁護映画である。『ベーゼ・モア』(00)ほどの陰惨さはなく、何でもストレートに表現している様は爽快感すらあり、あまりに正論過ぎる主人公の主張には涙すらさせられる。

それにしても、公開日が『ダークナイト ライジング』と被っているのみならず、あのような深刻な銃乱射事件が公開直前に起きてしまう、日本における本作の公開はまるで何かに祟られているかのようである。
(上原輝樹)



7月28日(土)より、シネマライズほか全国順次ロードショー


監督・脚本:ボブキャット・ゴールドスウェイト
撮影:ラッドリー・ストーンサイファー
音楽:マット・コラー
製作:ジェフ・クロッタ、サラ・デ・サ・レゴ、リチャード・ケリー、ショーン・マッキトリック
出演:ジョエル・マーレイ、タラ・ライン・バー

© Darko Entertainment, LLC 2011

2011年/アメリカ/104分/カラー/シネマスコープ/DCP
配給:トランスフォーマー

2012年7月20日

『ジョルダーニ家の人々』ジャンルカ・マリア・タヴァレッリ


6時間半の長丁場ながらも、TV用4エピソードの一気上映ゆえ、大作感は薄い。去年のイタリア映画祭で上映された3時間の歴史物『われわれは信じていた』(マリオ・ マルトーネ監督/名匠レナート・ベルタが撮影監督)の方がガッツリ長尺の映画を観たという感じが強かったが、こちらは現代的意匠を纏ったメロドラマの趣き。

映画は、マリオ・モニチェッリやヴェンダース、ビリー・ワイルダーの書籍を書店に並べたりすることで、シネフィルへの目配せらしきものは感じさせるが、全般的に映画的興奮を呼び寄せる瞬間は少なく、むしろポール・ハギス的現代アメリカ映画の心理描写を重視した脚本の影響が強く見られる。

例えば、主要な登場人物のひとりである末っ子のロレンッオ(アレッサンドロ・スペルドゥッティ)は何の前触れもなく唐突に事故で死んでしまう。残された家族はその喪失の重みに長い時間を掛けて耐えていくしかなく、観客もまた、彼らと共に非スペクタクルな時空間を共有していくしかない。そんな6時間半というメロドラマ的時間の中で、等身大の登場人物たちが私たちの中にじわじわと浸透してくる。


観始めて4時間半くらいたった辺りだろうか、長男アンドレア(クラウディオ・サンタマリア)の恋人ミシェル(ティエリー・ヌーヴィック)の境遇が、自分の全く個人的な記憶、若くして死んだ友人の記憶と繋がってしまい、突発的に涙腺が決壊してしまったことは、ここにわざわざ書くようなことではないのかもしれない。しかし、こういことが突然起こるから映画というものは恐ろしい。

その点をあまりに個人的な体験として差し引いたとしても、観客は、この作品の浸透力が思いのほか長続きすることを映画を見終わった後になって知ることになるだろう。次男のニーノ(ロレンツォ・バルドゥッチ)が醸し出していた、世間や親に対する違和感の表現、所作振る舞いは、自分の中に、現代的な若者の新しいひとつのポートレートを付け加えていった。ジョゼッペ・トルナトーレ監督の『シチリア!シチリア!』(09)でダンディズム溢れる主役を演じたフランチェスカ・シャンナの好演が観れるのも嬉しい。派手さはないが、キャラクター造形に秀でた滋味溢れる佳作である。
(上原輝樹)



7月21日(土)〜9月14日(金)まで岩波ホールにて特別ロードショー


監督:ジャンルカ・マリア・タヴァレッリ
脚本:サンドロ・ペトラリア、ステファノ・ルッリ
プロデューサー:アンジェロ・バルバガッロ
撮影監督:ロベルト・フォルツァ
出演:クラウディオ・サンタマリア、パオラ・コルテッレージ、ロレンツォ・バルドゥッチ、エンニオ・ファンタスティキーニ、ダニエラ・ジョルダーノ、ファリダ・ラウアッジ、レイラ・ベクチ、ティエリー・ヌーヴィック、フランチェスコ・シャンナ

2010年/イタリア、フランス/399分/カラー/ステレオ
配給:チャイルド・フィルム、ツイン

2012年7月13日

『さらば復讐の狼たちよ』チアン・ウェン


『紅いコーリャン』(87)で女優デビュー作とは思えない妖艶な魅力で世界を驚かせたコン・リーと、熱い視線を交わしその足に触れ、やがて結ばれる野性味溢れる神話的な主人公を演じたチアン・ウェンが主演、監督を務めた『さらば復讐の狼たちよ』は、如何にも、今現在世界で最も活力に満ちた国で作られたとしか言いようのないネルルギーに満ちた痛快活劇である。

映画が始まるとまず、音の大きさに驚かされる。これほど、大きな音の映画は、アレクセイ・ゲルマンの『フルスタリョフ、車を!』(98)以来のことだろうか。その音の大きさに呆気にとられていると、"馬列車"を転覆させる、そのアイディアとアクションの完成度の高さに驚かされるまで、何分も掛からない。冒頭からやけに威勢が良いのだが、この勢いはほとんど弛緩することなく132分間を一気に駆け抜ける。

舞台は1920年代の中国、辛亥革命後の政治の頽廃期、地方都市を収める独裁者(チョウ・ユンファ)は、民衆から搾取した財力と暴力で街を支配していた。そこに、「俺は頭を下げずに金儲けする」と豪語する"アバタ"のチャン(チアン・ウェン)が率いる7人組のギャング一行が辿り着き、巨大な権力を持つ独裁者に真っ向勝負を挑むのだが、この両者の頭脳戦を含めた闘いが滅法面白い。そして、物語のコアに揺るぎない"義侠心"がある、というところが、この映画に古典映画的な風格を与えている。


本作の舞台になった中国の1920年代という時代について、監督のチアン・ウェンは、インタヴューでこのように語っている。
「20年代は中国で最も外国と中国のものが入り混じった時代で、みょうちきりんなものが一杯あった。20年代の中国は中洋折衷が多かったんだ。もちろん、洋には西洋も東洋も入る。中国は東洋、つまり、日本の大きな影響を受け、西洋の物の多くは日本を経て伝わってきた。その点を日本人は意識しているかどうか知らないが、中国は日本のものをたくさん取り入れてきたのさ。だから、日本のものが社会の中でも、ごく普通にあったんだ。日本は漢字を使うから、日本から単語を輸入したって西洋からの輸入ほど特別な感じもしない。映画に和太鼓が登場するけど、中国の観客の多くはあれが日本の太鼓だとは気づかなかった。若い人ほどそうだった。日本のものとは意識しないんだ。これは20年代もそうだったのじゃないかと思うよ。」

この言葉の後に、ロウ・イエが、『スプリング・フィーバー』公開の為に来日した時に私たちに語ってくれた言葉を続けたい。(チアン・ウェンも、ロウ・イエ同様、中国当局から5年間の映画製作禁止処分を受けている。)
「1930年代というのは、ユイ・ダーフに代表されるように、個人をとても尊重して重要視して作品を書いた、そういう素晴らしい作家達がたくさんいたわけです。中国は歴史的にみて個人に対して抑圧を加えるという方向でこれまできたわけですが、それに対して30年代の人達は、人間性をちゃんと個人の目から見据えて、捉えようとした。それが1930年代の素晴らしい個人を捉えた作品の始まりだったわけです。しかしながら、その後の中国の現代史の中では、そのせっかく芽生えた個人の発芽というものを、また薄れさせてしまった歴史的な背景があります。30年代の作家達は色々日本の影響も受けている。またフランスの影響も受けている。日本とフランスと中国と、そういうものが混じっているのが30年代だと思うんですね。非常に重要な時期なのです。」


片や大作娯楽映画、片や独立系のアートフィルムの映画人とみなされている、チアン・ウェンとロウ・イエの両者が揃って、1920〜30年代の自由の萌芽が芽生えた時代の中国をテーマにしていることはとても興味深い。しかも、娯楽映画として一級品である本作の最大のテーマが、"如何にして革命を起こすか"なわけだから、これはもう、実際に"革命"を起こしたことのある国からしか生まれ得ない映画であると言わざるを得ない。せめて、閉塞状況が続くこの国においても、「頭を下げずに金儲けする」"威勢の良さ"と"義侠心"だけは、何食わぬ顔をして見習いたいものだ。
(上原輝樹)



7月6日(土)より、全国ロードショー


監督:チアン・ウェン
ビジュアルデザイン:ウィリアム・チャン
撮影監督:チャオ・フェイ
音楽:久石譲
出演:チョウ・ユンファ、グォ・ヨウ、チアン・ウェン、カリーナ・ラウ、チェン・クン、フー・ジュン、チョウ・ユン、ジャン・ウー、ジャン・モー

© 2010 EMPEROR MOTION PICTURE (INTERNATIONAL) LTD. BEIJING BUYILEHU FILM AND CULTURE LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

2010年/中国/132分/カラー/シネマスコープ/ドルビーデジタル
配給:ファントム・フィルム

2012年7月12日

『少年は残酷な弓を射る』リン・ラムジー


原題は『We Need to Talk About Kevin』、サスペンス色を強めた邦題も悪くないと思うが、個人的には、どこか真面目さと几帳面さが前面に出ている原題が好みだ。その方が、本作の意図した日常に潜む不気味さがじわじわとと伝わってくるのではないかと思う。

ティルダ・スウィントンが演じるエヴァは、世界中を飛び回り、紀行文を書く作家として、自由奔放に生きてきた。作家としてキャリアを確立し、時には我を忘れるほどの情熱的な体験に身を任せる、現代の多くの女性が憧れてもおかしくない人生のひとつのプロトタイプ。そんな"セレブ"な人生の時間を享受してきたエヴァは、やがて、ロマンティックな時間を共に過ごしてきた恋人フランクリン(ジョン・C・ライリー)と家庭を作るようになり、授かったのが長男のケヴィンだった。しかし、ここからエヴェの人生の歯車が狂い始める。


ケヴィンは、赤ん坊の頃には、一日中泣きっ放しでエヴァを疲れさせ、3歳になっても、一言も言葉を発っしず、母親を睨みつけるばかりの子どもになっていた。6歳になると、父親のフランクリンには可愛らしい笑顔を見せるが、母親にはあからさまに反抗し、本能的、戦略的に母親を追い詰めていく。困惑するエヴァは、夫に不安を伝えるが、「男の子なんてこんなものだよ」と言って彼女の困惑を全く意に介さない。

ケヴィンを演じたエズラ・ミラーは、ケヴィンと母親との関係について、インタヴューでこのように語っている。
「ケヴィンは、母親が自分に対してしていることが心からのものではなく、虚構なのだと気付いてしまう。本当は常に無視されて愛されていないのに母親が母性愛をデモンストレーションしていたらどうなんだろう?愛している振りはしているが、実は捨てられたも同然だと怒るでしょう。人間は本能的に愛されるものだと思っているので、子育てにおいて親の関心が自分に向けられていないと思う子供はどんな怒りを持つでしょうか?親に注目されずに育った子は、何をしてでも注目を浴びたいと思うのではないでしょうか?ケヴィンは誠実な母親の愛情が欲しかったから、ケヴィンと母親が分かち合っているこの状況、この真実を感知してほしかったんだと思います。」


母親の本質的な無関心を憎悪するケヴィンは、ただのお人好しで鈍感な父親を味方につけて、母親に対する怒り、父親に対する軽蔑を心の内に募らせていき、やがて、悲劇的な形でその怒りを爆発させる。映画は、どこの家庭にも存在しうる悲劇の萌芽を、やがて暴走していく最悪のシナリオをとして描くことで、子どもに対する親の無関心について、教育的な警告を発している。その警告を発する上でリン・ラムジーは、若かりし頃のエヴァが体現したスタイリッシュさそのものの端正な映像に、(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』『ノルウェイの森』等で知られる)トラウマ系映画のサントラといえばこの人というジョニー・グリーンウッド(レディオヘッド)が創り上げる楽曲と選曲を、悲劇的な内容とミスマッチに配合し、独特な世界観を構築することで説教臭さを回避することに成功している。

(上原輝樹)



6月30日(土)より、TOHOシネマズシャンテにて公開


監督・脚本・製作総指揮:リン・ラムジー
撮影:シーマス・マッガーヴェイ
作曲:ジョニー・グリーンウッド
原作:ライオネル・シュライバー
出演:ティルダ・スウィントン、ジョン・C・ライリー、エズラ・ミラー

© UK Film Council / BBC / Independent Film Productions 2010

2011年/イギリス/112分/カラー/アメリカン・ビスタ/ドルビーSRD
配給:クロックワークス

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