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ESSAY ON OZU'S TOKYO MONOGATARI

「60年代」フィルターを外して観る「東京物語」

イーデン・コーキル

小津安二郎監督の「東京物語」(1953年)がいくつもの海外の映画祭で上映されたのは、ヌーベル・バーグが咲き誇りし1960年代だった。当時の映画愛好家の間では大変評判が高く、いやそれ以上のもので、小津の作品に対して愛情を表明すること自体が、名誉の勲章のようなものだった。
その理由の一つは、小津の作品が、かつて例をみないほどに「スロー」な映画だと考えられていたことだ。当時の作家主義に傾倒する熱狂的なファンの間では、この「遅さ」を楽しむ能力を持ち合わせていること自体が、監督をアーティストとして信望している証とされた。加えて、小津映画の主題とされた「日本人らしさ」は、その当時ヨーロッパやアメリカを席巻し日本ブームを巻き起こした「茶の本」に対する、映画からの完璧な賞賛とみなされた。
言うまでもなく60年代の作家主義や日本ブームは過ぎ去って久しい。しかしあの独特な時代に定着した小津映画の国際的評価というのは変わっていない。だからこそ、とりわけ「スロー」で「日本的」だと信じられてきた「東京物語」の魅力が、偏(ひとえ)にその点にあるのか、改めて検証してみたい。

小津がスクリーン上での動きを嫌うことはよく指摘されている「東京物語」でもドリーやクレーンは使わず、ただ慎重にパンするのがせいぜいだ。
フレーム上で早く動くことを許されたものといえば(走っている列車の「カーテンショット」以外)人が優しくあおぐ団扇くらいだ。しかし驚くほどドラマティックで、観る者を混乱させるカットもある。映画がそれだけで「早く」なる訳ではないが、このカットの挿入である種の爽快さが演出される。

「東京物語」は息子や娘を東京に訪ねる老夫婦(笠智衆・東山千栄子が演じている)を描いた作品だ。活気に満ちた戦後の東京で暮らすその子供達が、両親のために割く時間など持ち合わせていないと悟るまで、フィルムは秩序立てて構成されている。
楽しみにしていた東京見物が長男の仕事の都合で中止になった2人は、長男の家の一室で佇む。ここまでは分かりやすい。だが次のカットでは、老夫婦は娘の家でくつろいでいる。どうやら追い出されてしまったようだ。また、その娘が両親を海に近い湯治場である熱海に行かせてはどうかと弟に持ちかける。次のカットで老夫婦はもう海を見つめているのである。
なんとも軽妙でありながら混乱させられるのだが、これが正に小津の意図するところで、老夫婦が経験しているめまぐるしさに観客も巻き込まれるよう導いているのだ。結果として観ている我々も、騒がしい都会に2人が落ち着ける場所はないことを、どうしようもなく思い知らされる。

最終的に老夫婦を親切心をもって迎え入れたのは、8年前に戦死した2番目の息子の嫁ただ1人だった。海外では、原節子演じる嫁が示す義理の両親への献身は、「現代的」であり身勝手な実子と比較され、家族を尊重する「伝統的」な日本人を象徴するものと解釈された。この解釈は間違ってはないが少し単純すぎるだろう。
嫁が義父に対し、亡くなったあなたの息子を思い出さない日もあるのだ、と心を打ち明けて泣く場面がある。妙にぎこちない、未亡人の行き場を失った愛情が義父に向けられたかという瞬間である。ここで小津がこの役柄を伝統的で高潔な人間としてではなく、むしろ皆と同様に自分勝手、とまではいかないまでも、複雑で結局のところ利己的なキャラクターと見ているのが分かる。
未亡人の「親切心」の根底には、たとえそれが記憶の断片でも、あるいは亡き夫の面影を誰かに投影したいという願い、何かを取り戻したいという切望がある。一概に伝統的でも日本的でもなく、誰もが普遍的に持っている自然な感情だ。小津作品が、自国のみならず海外でも理解され、40年前と同様に今まだ観る者を魅了して止まない本当の理由はここにある。

(翻訳:親盛ちかよ)







『東京物語』

監督:小津安二郎
製作:山本武
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
美術:浜田辰雄
衣裳:斎藤耐三
編集:浜村義康
音楽:斎藤高順
出演:笠智衆、東山千栄子、原節子、杉村春子、山村聡、三宅邦子、香川京子、東野英治郎、中村伸郎、大坂志郎他

1953年/日本/136分/松竹