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上原輝樹
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個人的には全10作品の中で、吉野耕平『日曜大工のすすめ』、伊月肇『トビラを開くのは誰?』、阿部綾織・高橋那月『ニューキッズオンザゲリラ』、ジェームス・マクフェイ『バーニングハーツ』、木村有理子『わたしたちがうたうとき』の5作品が面白かった。10作品中5作品が面白いという確率は、例えば、今年のTIFFやフィルメクスとの比較で言えば、10作品中4作品程度が面白かったという確率に比べても、かなりハイアベレージと言ってよい。こうした機会に若い映画作家の作品を並べて観ることができるのは、観客にとっては多様な楽しみ方を享受でき嬉しい限りだが、当の映画作家たちにとっては、横並びで否応無く比較、評価される試練の場として機能しているはずで、その事自体が、残酷な現実を若い映画作家たちに突きつける。それはとても健全な試みなのだと思う。

吉野耕平監督の『日曜大工のすすめ』は、映画作家的というよりは、CMクリエイター的感覚の繊細にスタイリングされた映像で、"普通の人々"のすぐ隣りにある闇を描く。無さそうで有りそうな話のまとめ方が洗練されていて印象に残る。ジェームス・マクフェイ監督『バーニングハーツ』のワンシーン・ワンショット、アクションシーンの横移動長回しショットは、ゲーム世代ならではの新感覚が面白く、阿部綾織・高橋那月両監督『ニューキッズオンザゲリラ』では、柄本佑演じる同性愛者ステラの人物造形が群を抜いて魅力的だった。

20111130_03.jpg木村有理子監督の『わたしたちがうたうとき』と伊月肇監督の『トビラを開くのは誰?』は、恐らく誰が観ても傑作と思うレベルの作品だ。木村有理子監督の"音"に対する感覚は他に比べる対象が思い浮かばない位、独特なものがある。伊月肇監督の『トビラを開くのは誰?』は、童話の世界、そのもののような映画だ。怖くて、悲しくて、そして、どこか懐かしい。

木村監督も伊月監督も、屋外の空気感、時間の感覚を捉えることに長けているように思う。『わたしたちがうたうとき』の日が暮れてゆく時間帯を二人が歩いていくエンディングシーンは、子供の頃、何か怖い気配を感じると、声に出してうたうことでその怖さを紛らわせた、そんな万人の心に残る記憶を呼び覚ます、忘れ難い短編映画クラシックとなる予兆に充ちている。

20111130_04.jpg『トビラを開くのは誰?』もエンディングが秀逸だ。夜の闇の奥の奥まで飛んでいき、消えてゆく青い風船は、ことによると、瀬田なつきの『あとのまつり』で、遠くへ遠くへ飛んでいき、最後にはパンと破裂して消えてしまう赤い風船と対を成しているのかもしれない。瀬田なつきの破裂してしまう情熱の色<赤>を纏った風船に対し、ブルース(憂鬱)の色<青>を纏い、破裂することなく、どこまでもどこまでも、宇宙の果てまで飛んでいく風船は、破裂してしまわない限りにおいて、母親は消えてしまったのではなくて、どこか遠いところに存在し続けている、という感触を少年の心の中に残し続けるのだろう。

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『KOTOKO』フィルメックス2011 特別招待作品

浅井 学
20111130_01.jpgCoccoのライブパフォーマンスやPVに映し出された姿を見て、女優として映画を撮りたいと願った監督やプロデューサーは多かったのではないだろうか。それほど彼女の内包する純粋性と狂気、少女と母、バレリーナのしなやかさと飢餓的な痩躯、その秒単位で入れ替わる多面性は魅力的に思える。塚本晋也監督も長年、女優Coccoに恋いこがれてきたという。「昨年、7年介護した母が亡くなった。Coccoはそれから間もなく私の前に現れた」とまるで"運命の女"と出会ったかのように語っている。今回、彼女のライブに密着し、インタビューを繰り返し日常の言葉にも耳を傾け、その内面を描くシナリオを作り上げた。
幼い子どもを一人で育てる母、KOTOKOは、過剰な愛情と強迫観念によって我が子が何者かによって襲われるのではないか、殺されるのではないか、あるいはこの自らの手で...。悪夢と幻視によって壊れかけた時、自分を愛する男(塚本晋也)に出会い、幸福な明日を夢見るのだが...。それにしても、主人公KOTOKOの設定である、シングルマザー、育児ノイローゼ、自傷、精神疾患、サディスティックな性格などは、ややスキャンダラス気味に伝わってくるCocco像そのもので、それを本人が"演じる"という摩訶不思議さ。血と笑いと狂気と爆音、鬱積から炸裂へ向かう塚本ワールドをBGMにして、吹っ切るかのように女優Coccoがスクリーン上でぶちまける。

『オールド・ドッグ』フィルメックス2011 コンペティション

上原輝樹
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チベットの広く閑散とした土地に平たく軒を並べる建築物が、さながら失われゆく映画のセットのような哀愁を帯びた佇まいで人気の薄い街中に辛うじて立ち並び、近代化の波をその"音"で伝える建築現場から発せられるまばらな騒音が、街を不穏な気配でみたしている。その街中をオートバイに引かれて走る"老犬"の荒くなっていく息を捉えるオープニング・シークエンスのサウンドは、ラストシーンで気高い誇りを示した後の老人の荒い息を同価のものとして的確に並置することで、今や希少価値となってしまった"老犬"と近代化の中で危機にさらされているチベット民族の"誇り"を観客の脳裏で二重写しのイメージとして構成させることに成功にしている。
物語の伏線を構成する"音"作りはもとより、羊の放牧を生業とする誇り高き老人の一家が住まう、丘陵地帯を覆う曇天の空と雲、西部劇のゴーストタウンのような田舎の町並みを端正な映画的構図に収める画作りが素晴らしく、せっかくなら、この画をフィルムの質感で観たかったという欲求に駆られることを否定し得ないものの、どうやら、この映画は、綿密に計画された部分以外にも幾つかの偶然(群れから離れてしまった迷える羊が図らずも見せてしまった名演技や、演出しようのない"雲"の見事な佇まい)をも味方につけた強運に恵まれているようだ。本作が長編映画3作目で、チベット語、中国語による小説が幾つもの文学賞を受賞しているというペマツェッテン監督の今後の更なる活躍を楽しみにしたい。

『グッドバイ』フィルメックス2011 コンペティション

上原輝樹
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2010年3月にジャファル・パナヒ監督と共にイラン当局に逮捕された本作の監督モハマド・ラスロフは、釈放されてすぐに本作の撮影に取りかかったのだという。
イランのアフマディネジャド政権下、密室劇のような緊張感で、テヘラン市民が現在進行形で経験している日常を覆う恐怖を描いた本作は、ロージーやポランスキーが得意とする社会から孤立していく個人を描くカフカ的不条理劇の一歩手前で立ち止まり、とりわけ"女性"の置かれている立場の不条理を現実そのものとして炙り出すことに集中している。グレー、ブルー、ホワイトの寒色系で統一された色彩設計の中で、微かな自由への希望を象徴する赤のマニキュアの色も、彼女が追い詰められて行くに従って、その色彩を失って行く。受難が続く日常の中で、彼女は腹に宿った子を産むことの不安に苛まれる。
釈放されたばかりの監督が、自らの体験も踏まえて描いたに違いない本作は、マルコ・ベロッキオ監督が、30年前の"鉛の時代"に「赤い旅団」が起こした誘拐殺人事件を描いた傑作『夜よ、こんにちは』で効かせたのと同種の"抑制"を効かせ、祖国を捨てなければ生きていけない人間の絶望と受難をミニマリズム的シンプルさで描く。"従順さ"を強いる共同体に潜在する見えざる意思の恐怖が雄弁に伝わってくる佳作。

『カウントダウン』フィルメックス2011 コンペティション

上原輝樹
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一人息子を失って以来、冷酷な取立屋として生きてきた主人公(チョン・ジェヨンが好演)は、ある日医師から末期肝臓がんを宣告される。生き延びるには、10日以内に移植手術を受けるしかない、ということでサバイバルへの"カウントダウン"が始まる。
ソダーバーグのオーシャンズ・シリーズを彷彿させるラウンジ系BGMがテンポの良いストーリーテリングに拍車をかけるスタイリッシュなアクション映画、かと思いきや、そうは単純に行かないのが韓国映画の面白くもやっかいなところ。意味不明なエンディングにズッコケさせられた、傑作『下女』のリメイク、『ハウスメイド』の女優チョン・ドヨンがまたもや周囲を欺くトンデモ女"ミス韓国"として暴れ回るところが痛快!というところまではまずまず想定内だったが、亡くなった一人息子と父親である主人公との秘められた過去が、追跡劇のクライマックスに絡めて描かれていくと、物語は次第に父子の人間ドラマの様相を呈していき、この父子の号泣エピソードがすべてを洗い流していく。
確かに、終盤のエピソードは"盛り過ぎ"の感はあるが、初の長編映画監督作品としては、これぐらいやり過ぎてしまう位が頼もしい。本作の半分は"ギャング映画"でありながらも、銃弾が1発も飛び交わない、というところにも、ホ・ジョンホ監督の"人間臭い"喜劇への志向性が垣間見えて興味深かった。

『J.A.C.E./ジェイス』 TIFF2011 コンペティション

浅井 学
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最近のニュースをひと際にぎわせている"ギリシャ"のダークサイドを描いたスピード感あふれるエンタテインメント作品。ギリシャ系アルバニア人の男の子"ジェイス"は、里親家族の虐殺を目の当たりにした日から、物乞いから売春、臓器売買まで様々な目的で子供たちを海外に"輸出"するマフィア組織に捕らえられ、これでもかというほど過酷な運命をたどる。個人的には、ユーゴスラビア紛争後も複雑な宗教・民族問題を抱えたバルカン半島を背景に、さらに経済危機で瀕死の状態となった、よりリアルでセンシティブな"ギリシャダークサイド"を期待したが、犯罪組織の描き方が、近未来的なデザインのきらびやかなクラブにある組織本部、ハウスミュージック、コカイン、ゲイダンサーなどベタでどこか90年代な印象だった。わかりやすいといえばそうなのだが、ギリシャ・ノワールならではのスタイルをみたかった。

2011年10月27日
★★

『ミヒャエル』 TIFF2011 WORLD CINEMA

浅井 学
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家の地下に誘拐した男の子を監禁する小児性愛者が主人公の映画と聞けば、サイコスリラー映画にあるような嫌悪感を催す暴力描写や、絶望的で仰天の結末などを想起するが、この映画にはほぼ皆無だ。緊張感を高める過度な演出やサイコパスを強調する描写を意図的に排し、友人とのスキー休暇、監禁中の男の子とのクリスマスの準備、そして夕食時の会話など、まるでホームドラマやとぼけたコメディタッチのエピソードの中に、どこかこの主人公の欠落した人間性と破綻への予感を潜ませる。監禁されている男の子への眼差しもどこか客観的で不必要に感情移入をさせない。客席から笑い声がこぼれるどこかのどかなサイコサスペンス、この"違和感"はとても新鮮だった。そんな極めて技巧的なシナリオと演出、カメラワークにグイグイと次の展開へと引き込まれていく。監督第1作にしてカンヌ映画祭コンペティション部門に選出された作品であるというのもうなずける。キャスティング・ディレクターとして60本以上の映画プロジェクトに参加したというキャリアが、この独自の演出方法のベースにあるのは間違いない。直近でミヒャエル・ハネケ監督の『白いリボン』への参加を聞いて多いに合点がいった。マルクス・シュラインツァー監督とこのスタッフによる次作品への期待が高まる。

2011年10月25日
★★★★

『アルバート・ノッブス』 TIFF2011 コンペティション

上原輝樹
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ロドリゴ・ガルシア監督得意の"女性映画"の変奏ではあるのだが、話のセットアップが少し遅い。アーロン・ジョンソンとミア・ワシコウスカのカップルが成立した辺りから映画は色めき立ち始め、ジャネット・マクティアの夫婦が登場するに及んで物語は興味深い展開を見せはするものの、主演のグレン・クローズが、劇中では"男性"に見えている設定ながら、個人的には中々そのように見えずに苦労した。とはいえ、日頃"男装"のふたり(アルバートとヒューバート)が、フェミニンな衣装を身に纏い、浜辺へ散歩するシークエンスが本作の物語の核心を表現していて素晴らしい。この海辺のシーンで、アルバート(グレン・クローズ)が自らの"女性性"を解き放つのとは対照的に、"女装"男性にしか見えないヒューバート(ジャネット・マクティア)の居たたまれなさとのコントラストが強烈だが、この短いシークエンスは、それぞれの日常における"生きずらさ"の反転として描かれている。置かれた境遇から男性として生きることを余儀なくされたアルバートの内面はあくまで女性のままであり、自らの意思で男性として生きることを選んだヒューバートは、内面も男性化している。自らの生き方を選択出来なかった前者よりも後者の人生の方がより幸福であるはずだが、抑圧された"女性性"の解放を短いシークエンスで夢のように美しく描いた監督の手腕はさすが。そんなジェンダーの問題に加えて、二人とも"女性"を愛する、という複雑さが本作の面白さでもあるが、纏うコスチュームのチャーミングさも含めて、グレン・クローズ以上に本作の魅力を担っていると言って良いミア・ワシコウスカの、エンディングシーンのクローズアップショットが、スクリーンの大写しに耐えうる美しさで捉えられていなかったのが残念。

2011年10月27日
★★★

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