『いつか行くべき時が来る』ジョルジュ・ディリッティ

上原輝樹
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子どもを亡くした傷心の主人公アウグスタ(ジャスミン・トリンカ)は、故郷の北イタリアを離れ、母アンナ(アンヌ・アルヴァーロ)の友人である宣教師フランカ(ピア・エングレベルト)の元に身を寄せていた。宣教師フランカは、船でアマゾン川沿いの村々を訪れキリスト教の布教活動に勤しんでいる。映画は、フランカに同行するアウグスタの"内面"に寄り添って進んでいく。フランカは、"神に祈りが通じると、神は近くに現れる。神は乞食のようにしばしば現れては、気付かれないと、いずれ去って行く。気付いたものには、種を蒔いて去って行く。"と言うが、アウグスタはあまり信じられないと言う。アウグスタは、"キリスト教信仰"を受け入れ切れない自分を発見していく。

アマゾン川の雄大な自然の景観と対照的に映し出されていくアウグスタの寄る辺無さが、自然の大きさと人間存在の小ささのコトラストを当然のように浮き彫りにしながらも、アウグスタは、"信仰"への同調圧力に抗う"疑う力"を内面に漲らせていく。アウグスタはアマゾン川のゆったりとした水の流れのように、自然の奥へ奥へ、人々の中へ中へと入り込んでいき、やがてフランカと別れてマナウスの街に住み始める。よく言われるように、苦境においても人々の中に入っていく"能力"に恵まれているのは、やはり、女性の方なのだろうか。アウグスタは、マナウスの地に足をつけてゆっくりと歩みを始め、やがて、ファベーラの子どもたちと共に走り回り、サッカーに興じるまでにバイタリティを回復していくだろう。前作『やがて来る者へ』(09)では音響的サウンドトラックで私たちの耳を楽しませてくれたジョルジュ・ディリッティは、本作では、アマゾンのロケーションに倣ったブラジル音楽をスクリーン越しに響かせ、見るものにアマゾニアへの旅愁を誘う。

もちろん、スクリーン上で旅愁を誘うアマゾン川流域の街マナウスが、現実の理想郷であるとは限らない。経済成長目覚ましいブラジルにおいて、再開発の波がその地にも及び、政府は、独自の水上生活を営む住人たちを、"より良い暮らしを"というスローガンの下に追い出し、新しく建築した画一的な郊外のシェルターのような家屋に押し込めようとしている。政府の方針に反対して抵抗運動を試みる者もいるが、スラムが常態化した街では赤ん坊の人身売買が行われているなど、貧しさ故の問題も山積している。そんな折、マナウスの女性の赤ん坊が肉親の若い男の手によって売り飛ばされてしまうという事件が起き、自らの子どもを失ったトラウマが蘇った彼女は、ショックを受ける。それでも、アウグスタはアマゾンの大自然の中に留まり続ける。襲いかかる苦しみや困難が、彼女に自らの"生き方"について、降りしきる雨と吹き付ける風が彼女の"生命"について、実存についての普遍的な"問い"を発し続ける。人、自然、環境と自分との関係をアマゾンの雄大な時の流れの中で見つめ直して行くアウグスタにキャメラはどこまでも寄り添っている。

マナウスで子どもを失った女性は、アウグスタの配慮でイタリアのアウグスタの母と祖母の元へ送られる。死の床にある祖母に寄り添うマナウスの女性が最後に捧げる祈りの言葉が秀逸だ。
「"目"はすべてを私に見させてくれた。"手"は物を持ち上げ、愛撫してくれた。"足"は立ち続けて私を支え、"脚"は私を遠くまで連れて行き、見知らぬ人々に出合わせてくれた。"頭"は私に生き方を考えさせ、"心"は私に感動を味わわさせてくれた。"性器"は私に歓びを与え、"お腹"はすべての生命のはじまりを授けてくれた。」
キリスト教が根付かない土地においても、人々の祈りは存在する。人は、自らの生き方を自問し、そして、生命に感謝する。現代を生きるネオレアリズムの後継者ジョルジュ・ディリッティ監督が全ての悩める現代人に捧げた、生命礼賛の映画である。

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『いつか行くべき時が来る』
原題:Un giorno devi andare
2012 / 110分
監督:ジョルジョ・ディリッティ














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