映画の冒頭、馬車の一行は何者かに襲われ、車中の子ども諸共、谷底に突き落とされてしまう。この馬が落ちていくところを数台のキャメラで捉えたショットが迫真に迫っているのだが、それもそのはず、撮影では実際に"死んだ馬"が使われたのだという。馬にしてみれば、もう既に死んでいたとはいえ、撮影の為にもう一度死んだ(殺された)ようなものではあるまいか。
谷底に落ちた一行の存在に気付いた主人公の少年アンドレウは、山道を駆け下りていき、粉々に破損した馬車を見つけると、そこには瀕死の少年が血みどろで横たわっている。少年は、血が川のように伝う顔の中の目を見開き、アンドレウを凝視し「ピトルリウア」とだけ言い残し死んでいく。アンドレウは目撃したことを大人たちに伝えるが、彼らは、厄介な事になったと言い、狼狽の色を隠さない。このスペインの山間地帯の村には、何か不吉な秘密が隠されているに違いない。ちなみに、「ピトルリウア」とは、おとなしい小鳥を指す名前であると同時に、洞窟にいるとされる怪物の名前であるという。
映画の舞台は、内戦(1936~39)直後のスペイン、カタルーニャ州をモデルにしていることが、物語の設定とカタルーニャ語を使っていることから推察される。カタルーニャは、内戦で敗者となった共和国政府を最後まで支持したこともあり、フランコ独裁政権から過酷な弾圧を受けた州として歴史的にも知られている。スペイン内戦については、人民戦線側の義勇軍に参加したジョージ・オーウェルのルポルタージュ『カタロニア讃歌』があまりにも有名だが、本作は、ミステリーというジャンル映画の形式を用いて、内戦が人々を勝者と敗者に、富める者と貧しき者に分断し、道徳観の荒廃をもたらしたことを、この村の陰惨な日常風景の描写を通して浮かび上がらせようとする。軸となるのは、主人公アンドレウの父親、そして、母親、教師、従姉、翼を持った美少年らとアンドレウの関係性だが、いかにもスペイン映画的というべき、マジック・リアリズム描写は控え目に抑えられ、その分、ミステリー的意匠が映画のそこかしこにちりばめている。
「元気で過ごせ、それが子どもの唯一の義務だ」とアンドレウに言い聞かせる父親は息子からは篤い信頼を寄せられているが、内戦の末、敗者となり不遇をかこっており、当局からも睨まれている。母親は、そんな夫の身を守り、家族の生活を支えるべく身を粉にして働いているが、上手く順応出来ない夫に対して不満を持っているようでもある。学校の教師は、「私は勝者を支持する、金持ちは貧しい者よりも価値がある」と語る破廉恥漢のアル中であり、そんな教師に学ぶ子どもたちの間には、偏見や不寛容が巣食っている。
そんな息がつまる村の生活の中で、アンドレウが出会う二人の人物がいる。一人は手の指を爆弾で失った美少女の従姉であり、もう一人は、川で全裸で行水する年長の美少年である。年長の美少年は、背中から翼を生やし、この退屈な森から飛び立っていくことを夢見ている肺病患者であることが仄めかされている。心に深い闇を抱えた従姉は、性的に自分を解放することで精神の自由を得ようとするだろう。大人たちは、世界を沈黙と秘匿で塗固め、子どもたちは、偏見と抑圧と無知に囲まれた世界の中で、鈍感に年老いていくか、魂を病んでいくか、あるいは、この森を抜け出すしかない。
当局から身を隠していたはずの父親と思わぬ形で再会したアンドレウは、父親から言葉を授かる。「鳥は自由に飛ぶために生まれた。私も鳥と同じだ。何を理想とし、何の為に生きるかは個人の自由だ。それが叶わないと人は邪悪になる。だから、皆理想の為に闘うんだ。」しばしば、本作で発せられるこうした台詞は、瞬間的に、人間の営みの真実を突いているように聴こえる。しかし、映画は、こうした台詞を物語の核心に据えるわけではなく、複雑なプロットの中に迷い込ませ、やがて、真実めいた響きを奪い取ってしまうだろう。むしろ、この映画を支配するのは、そうした"邪さ"であると言うべきかもしれない。
内戦の末に破壊された共同体では、何一つとして全うな存在が残らない。それは"子ども"も例外ではない。実際のところ、ネオレアリズモ的とでも言うべき社会性を帯びた主題を持った本作が、ミステリー仕立てで料理されたことによる素材と演出の相性は、原作小説では上手くいっていたとしても、映画的に正しかったのかどうかは疑わしいが、共同体を蝕んだ"邪さ"を映画に行き渡らせる苛烈さを以て、スペイン内戦の過酷な過去に向き合おうとしていることに疑いの余地はない。その意味で、冒頭の2度死んだ馬はこの映画の基本的なスタンスを示す上で象徴的ですらある。エンディングでは、心を押し殺した少年が一瞬だけ垣間見せる"感情"がほんの一瞬だが胸に迫り、また"邪さ"の向こうに遠のいて行った。
6月23日(土)より、銀座テアトルシネマ、ヒューマントラストシネマ渋谷他、全国順次ロードショー
監督・脚本:アグスティー・ビジャロンガ
撮影:アントニオ・リエストラ
原作者:エミリ・タシドール
出演:フランセスク・クルメ、ノラ・ナバス、ルジェ・カザマジョ、マリナ・コマス、セルジ・ロペス
2010年/スペイン、フランス/113分/カラー/デジタル/35mm/ヨーロピアンビスタサイズ/ドルビーステレオSR
配給:アルシネテラン
© Televisio de Catalunya, S.A (C) Massa d'Or Production Cinematografiques i Audiovisuals, S.A
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これといった事件も起きず、若者たちのとりとめのない日常が、短めのカットでランダムに、パラレルに、パズルのピースを埋めていくように繋がれていく、そんな印象を持ちながら観ていた映画が、実体を伴って画面の中から人物像が立体的に浮かび上がって来たのは、ミュージシャンと看護婦の女性との会話のシーンからだろうか。特に魅力的にも見えない、チャラけた風情の若い男が、一見、不釣り合いな美しい女性を軽くあしらう、この理不尽な関係が観る者(といっても私だけかもしれないが)を苛つかせる。
そんなことで感情を逆撫でされながら観ていると、すぐにこの男のバンド(高速スパム)のサウンドが中々素晴らしいことがわかってしまい、数分前に感じた理不尽な感覚は消え去えり、一転して好印象へと反転し、映画に一気に引き込まれてしまった。
屋上の端に腰掛け死を畏れない二人の少女、空ばかり撮る女、空を飛び地面に落ちた二十歳の女、バンジージャンプで空を飛ぶ快感を語る女、"空"を巡る女たちの群像劇でもある本作の際立った特徴は、やはり矢崎仁司監督の演出と女優たちの新鮮な存在感にあると思うが、かなり野心的な脚本にも注目しておきたい。
この映画は、主に、若い女性たちの何気ない日常を短めのカットで繋いでいくが、そうした細切れのディテイルは、やがて来る大きな出来事への予兆となる。しかし、その不穏な気配を敢えて隠すことで、映画が進むに従って次第に露になる"現実の裂け目"を事後的にサスペンスとして描き出しているところが面白い。だから、観客の理解は常に映画の進行より遅れることになる。これは、ヒッチコックが観客に、登場人物の一歩先を歩ませようとしたことと、正反対のサスペンスメソッドと言うべきで、ここで想起されるのは、1+1が2にならない、モンテ・ヘルマンの『果てなき路』などのパスル的映画やラウル・ルイスの迷宮的映画の系譜である。
ただ、そうした興味をそそる構成とは裏腹に、台詞にはクリシェな点が目につく。屋上で少女が語る、90歳で大往生したおじいちゃんが生き返ったエピソードには笑わせられたが、風俗嬢の語る三島由紀夫の一番最初の記憶ネタ(産湯に浸かっている時、キラキラと水面が光っていた)やミュージシャンの男が言う「世界を変えるためにやってるんじゃない、世界に変えられないためにやってるんだ」という台詞には明らかに聞き覚えがある。
とはいえ、終盤に行くに連れて、高まる緊張感と突然訪れるゾッとするような瞬間の演出が見事で、昨今巷にあふれる、分りやすさばかりを目指した邦画よりも段違いに面白い。そして、迷宮的物語の中で女性たちが向き合う"空"は、"変わる"ことを象徴している。とりわけ、"変える"ことを不得手としているこの国の風土において、女性たちの方が男性たちよりも、"変わる"ことを敏感に察知している、そんな彼女たちのリアリティを見事に掬い取っているところが素晴らしい。
6月23日(土)よりロードショー
監督:矢崎仁司
プロデューサー:三谷一夫
脚本:矢崎仁司、武田知愛
撮影:石井勲
照明:大坂章夫
録音:成ヶ澤玲
メイク:渡辺順子
編集:目見田健
音楽:神尾光洋(高速スパム)
制作:中島祥元、岩田良章
宣伝美術:千葉健太郎
出演:粟島瑞丸、家優美子、石田真、 伊藤佳範、伊藤れいこ、入口夕布、栄島智、海老瀬はな、岡田幸樹、兼松若人、川村麻実、菊川史織、喜多陽子、気谷ゆみか、近藤奈保妃、滝田佑季、ダレアレ悟、戸塚純貴、富川一人、松林麗、水澤紳吾、宮島朋宏、吉谷多美、ボブ鈴木、松岡ジョセフ、齋藤純子、東京るまん℃、海音、高速スパム、田口トモロヲ
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科学技術の進化で老化は無くなり、全ての人間の成長が25歳でストップする社会。そこでは、25歳になった瞬間から全ての人間の左腕に刻まれたボディ・クロックが起動し、残された時間のカウントダウンが始まる。裕福なものは、その"余命時間"を腐る程持て余し、貧しいものは、"余命時間"を稼ぐために日々の労働に明け暮れている、、。
"遺伝子"がその人間の生涯を決定づけるという近未来SFにおけるノンエリートの"逃走"を『ガタカ』でスタイリッシュに描いたアンドリュー・ニコルが、今度は"貨幣"="時間"をテーマに、富めるものと貧しきものの間に存在する圧倒的な溝の中を疾走する貧者の"闘争"を、貧富の格差が拡大の一途を辿る現実に対する皮肉を込めて描く。
ほとんど、『ガタカ』のセルフリメイクではないかと思うほど、様々な設定やロケーションの"置換"が顕著な本作は、それ故に、アンドリュー・ニコルの作家性が明確に出た佳作と言って良い。イーサン・ホークが演じたノンエリートは、ジャスティン・ティンバーレイクに代わり、主人公と共に逃走/闘争するヒロインは、ユマ・サーマンからアマンダ・セイフライドへと引き継がれ、瀟酒な邸宅のパーティー会場の空気を優雅に振動させたチャーリー・ヘイ
デンの"First Song"は、ベベウ・ジルベルトの"In Time"に置き換わっている。
いわゆる"普通の"恋愛ものへの出演が多かったアマンダ・セイフライドだが、彼女のあまりにも大き過ぎる目は、本作のような近未来SFにおいて、より素晴らしい効果を発揮しているように見えるが、20世紀に作られた『ガタカ』よりも本作の未来描写の方が明らかに殺伐としているところが、21世紀における豊かな"未来観"の喪失を物語っているようで、リアルなプロダクション・デザインとして納得できるものではあるけれども、一抹の寂しさが漂う。
個人的には、いつも時間に追われている"時間貧乏"の生活を送っているので、SF映画のありえる/ありえないの設定を超えたところで、非常に身につまされるところの多い娯楽映画であった。
2月17日(金)全国ロードショー
監督・脚本・製作:アンドリュー・ニコル
製作:エリック・ニューマン、マーク・エイブラハム
制作総指揮:アーノン・ミルチャン、アンドリュー・Z.デイヴィス
撮影監督:ロジャー・ディーキンス
プロダクション・デザイナー:アレックス・マクダウェル
編集:ザック・ステインバーグ
衣装デザイナー:コリーン・アトウッド
音楽:クレイブ・アームストロング
出演:ジャスティン・ディンバーレイク、アマンダ・セイフライド、キリアン・マーフィ、ヴィンセント・カーシーザー、アレックス・ペティファー、マット・ボマー、オリビア・ワイルド
2011年/アメリカ/カラー/109分
配給:20世紀フォクス映画
© 2011 TWENTIETH CENTURY FOX
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個人的には全10作品の中で、吉野耕平『日曜大工のすすめ』、伊月肇『トビラを開くのは誰?』、阿部綾織・高橋那月『ニューキッズオンザゲリラ』、ジェームス・マクフェイ『バーニングハーツ』、木村有理子『わたしたちがうたうとき』の5作品が面白かった。10作品中5作品が面白いという確率は、例えば、今年のTIFFやフィルメクスとの比較で言えば、10作品中4作品程度が面白かったという確率に比べても、かなりハイアベレージと言ってよい。こうした機会に若い映画作家の作品を並べて観ることができるのは、観客にとっては多様な楽しみ方を享受でき嬉しい限りだが、当の映画作家たちにとっては、横並びで否応無く比較、評価される試練の場として機能しているはずで、その事自体が、残酷な現実を若い映画作家たちに突きつける。それはとても健全な試みなのだと思う。
吉野耕平監督の『日曜大工のすすめ』は、映画作家的というよりは、CMクリエイター的感覚の繊細にスタイリングされた映像で、"普通の人々"のすぐ隣りにある闇を描く。無さそうで有りそうな話のまとめ方が洗練されていて印象に残る。ジェームス・マクフェイ監督『バーニングハーツ』のワンシーン・ワンショット、アクションシーンの横移動長回しショットは、ゲーム世代ならではの新感覚が面白く、阿部綾織・高橋那月両監督『ニューキッズオンザゲリラ』では、柄本佑演じる同性愛者ステラの人物造形が群を抜いて魅力的だった。
木村有理子監督の『わたしたちがうたうとき』と伊月肇監督の『トビラを開くのは誰?』は、恐らく誰が観ても傑作と思うレベルの作品だ。木村有理子監督の"音"に対する感覚は他に比べる対象が思い浮かばない位、独特なものがある。伊月肇監督の『トビラを開くのは誰?』は、童話の世界、そのもののような映画だ。怖くて、悲しくて、そして、どこか懐かしい。
木村監督も伊月監督も、屋外の空気感、時間の感覚を捉えることに長けているように思う。『わたしたちがうたうとき』の日が暮れてゆく時間帯を二人が歩いていくエンディングシーンは、子供の頃、何か怖い気配を感じると、声に出してうたうことでその怖さを紛らわせた、そんな万人の心に残る記憶を呼び覚ます、忘れ難い短編映画クラシックとなる予兆に充ちている。
『トビラを開くのは誰?』もエンディングが秀逸だ。夜の闇の奥の奥まで飛んでいき、消えてゆく青い風船は、ことによると、瀬田なつきの『あとのまつり』で、遠くへ遠くへ飛んでいき、最後にはパンと破裂して消えてしまう赤い風船と対を成しているのかもしれない。瀬田なつきの破裂してしまう情熱の色<赤>を纏った風船に対し、ブルース(憂鬱)の色<青>を纏い、破裂することなく、どこまでもどこまでも、宇宙の果てまで飛んでいく風船は、破裂してしまわない限りにおいて、母親は消えてしまったのではなくて、どこか遠いところに存在し続けている、という感触を少年の心の中に残し続けるのだろう。
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"映画を撮ること"と"山を登ること"、どちらかひとつを成すだけでも、今の時代、酔狂としか思えないのだが、意外にも多くの登山映画が撮られていることに驚かされる。古くは、かの有名なレニ・リーフェンシュタールが主演を務めた『聖山』(26)『モンブランの嵐』(30)といった一連のサイレント映画、メジャーどころでは、イーストウッドの『アイガー・サンクション』(75)、スタローン主演の『クリフハンガー』(93)、日本ではやはり『植村直己物語』(86)だろうか。登山映画ではないが『八甲田山』(77)もある。ここ最近では『剣岳 点の記』、『アイガー北壁』といったところも記憶に新しい。その他には、本作のラインホルト・メスナーが原案を手掛け、ヴェルナー・ヘルツォークが監督したという『ザ・クライマー/彼方へ』という作品もあるようで、ドナルド・サザーランドとマチルダ・メイが出演しているのだという。
さて、世界最高の登山家として、恐らくは世界中の登山家から崇められるラインホルト・メスナーの自伝的原作の映画化である本作は、案の上、全く以て質実剛健なドイツ映画なのだが、自身登山家では全くない私の目には、50〜70年代初頭の登山家たちのアウトドア・ウエアやチロルの山間の町並みが、まずは見目美しく写る。"本物"に拘った製作チームは、パキスタンのナンガ・パルバート、イスラマバード、ミュンヘンといった現地でロケを行い、標高4,500メートルの地に撮影のためのベースキャンプを設置、風速数十メートルの暴風雨に氷点下30度という極限状況での撮影も強いられたのだという。そうした過酷さは、スクリーンから激しく伝わってくるものの、それだけではネイチャー・ドキュメントに過ぎないのだが、本作の"映画"としての魅力は、死線をくぐり抜けサバイバルしてきたラインホルト・メスナーをモデルとした主人公の人生とその弟の物語にある。
教会のミサの最中、ゴシック建築の壁を見ても"登る"ことしか考えない主人公の少年時代の愚鈍なまでに純粋な欲望に苦笑しながら激しく内心で頷きつつ、そんな兄の純粋さとそれ故の強さ、それに対して兄の追随者でしかない弟の弱さとコンプレックスの痛々しさに共感し、登頂後に主人公が一部の裏切りを決して許そうとしない苛烈さに、王を殺したことのない日本民族との感性の違いを強く意識させられた。イタリア、ドイツが福島の事故以降、見事に反原発に転じたが、日本人は中々素早くそのように振る舞えない、そんな個体差の違いもこの映画は改めて考えさせてくれる。
ヒューマントラストシネマ有楽町、シネ・リーブル池袋ほかにて上映中
監督・プロデューサー・撮影監督:ヨゼフ・フィルスマイアー
原作・アドバイザー:ラインホルト・メスナー
音楽:グスターボ・サンタオラヤ
出演:フロリアン・シュテッター、アンドレアス・トビアス、カール・マルコヴィクス、シュテファン・シュロダー、レナ・シュトルツェ
2009年/ドイツ映画/カラー/35㎜/シネマスコープ/104分
配給:フェイス・トゥ・フェイス
© Nanga Parbat Filmproduktion GmbH & Co. KG 2009
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日本人現役最高齢監督(99歳)新藤兼人が自ら最後の作品と宣言して撮り上げた『一枚のハガキ』は、"クジ引き"の運に左右され生き残ったのだという自らの戦争体験に基づき、戦争の理不尽に対する納得不可能な怒りを爆発させながら"生"への執着を描きながらも、例によって、時折訪れる完璧さからほど遠い、呆気にとられる新藤兼人的瞬間を偏在させ、豊川悦司、大竹しのぶ、大杉蓮、六平直政といった俳優陣の佇まいには、曰く名状し難いユーモアすら漂う。
日本の自主独立系映画の先鞭をつけることになった1960年の無言映画『裸の島』を本作の終盤でセルフリメイクし、自らのフィルモグラフィを円環で閉じるという完璧な最期への欲望を露にした巨匠の"意思の力"が漲る作品である。それにしても、乙羽信子と殿山泰司の夫婦を支配していた不穏さは、大竹しのぶと豊川悦司の夫婦には存在せず、よもや、豊川が大竹を殴るような事態は未来永劫訪れまいと思わせる優しさが本作の終盤を支配しているのは、50年前を今やり直せば、自分はこれほど優しくなれるのに、という取り返しのつかない過去への、巨匠の郷愁の現れだろうか。
テアトル新宿、広島・八丁座にて大ヒット上映中、8月13日より全国ロードショー!
監督・脚本・原作:新藤兼人
製作:新藤次郎、渡辺利三、宮永大輔
プロデューサー:新藤次郎
制作プロダクション:近代映画協会
撮影:林雅彦
編集:渡辺行夫
証明:山下博、永田英則
美術:金勝浩一
録音:尾崎聡
音楽:林光
ラインプロデューサー:岩谷浩
助成:文化芸術振興費補助金
出演:豊川悦司、大竹しのぶ、六平直政、柄本明、倍賞美津子、大杉蓮、津川雅彦、川上麻衣子、絵沢萠子、大地泰仁、渡辺大、麿赤兒
2011年/日本/114分/カラー
配給:東京テアトル
© 2011「一枚のハガキ」近代映画協会/渡辺商事/プランダス
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「<ネガの65パーセントに問題があり、176の場面で現像ムラ、斑点、フォーカス微動が、70のシークエンスで傷による何千というシミが見られ、全リールにカビ、無数のひびや亀裂が残されていた>フィルムのネガから直接スキャンし映画全体をデジタル信号化、一場面ごとに色ズレを調整し、シミや傷、カビなどの問題を解決、最後に全編を再びフィルムに戻し、適切な色を得るために、オリジナルと、ネガから直接作成したテストフィルムの両方と比較。最終のデジタル版は念入りに調整され、現代カラー映画の最高品質と、古いテクニカラー・プリントの持つ特質(色の際立ち、深い黒、穏やかなコントラスト、魅力的な人物の顔色)を結びつける(公式サイトの文章を編集)」べく、2年半の歳月をかけて修復された名作映画『赤い靴』が今、スクリーンで上映されている。
多くの観客は、本作の美麗プリント上映の陰に、そんな気が遠くなるような修復作業が施されたことなど知る由もないかもしれない。しかし、フィルムの保存・管理の問題は「映画」にとって実に現実的な問題として、これからより重要度を増していくのだろう。100年後には、本当に素晴らしい作品1000本だけが、フィルムで観ることが出来る「映画」として保存されている、なんていう事態もありうのかもしれないが、まあ、100年後の映画の心配をしているほど、余裕のある時代ではないことも事実なのだが。
私にしても、そんなことを考えながら本作を観たわけではなく、大きなスクリーンで60年前に作られた名作映画を観て、ただただ圧倒された。こうした大名作を改めてスクリーンで観る機会が出来るわけだから、それだけでも、デジタルリマスター版製作は意義が大きい。『ブラック・スワン』に戦慄した観客の皆さんにも、是非、本家本元の豊穣に触れて頂き、『赤い靴』が表現し尽くしているアーティストの禍々しくも聖なる欲望の業の深さ、そして、おとぎ話ならではの、あの奇妙なエンディングに驚愕して頂きたい。
7月2日(土)より、渋谷ユーロスペース上映中
製作・脚本・監督:マイケル・パウエル、
エメリック・プレスバーガー
撮影:ジャック・カーディフ
音楽:ブライアン・イースデル
指揮:サー・トーマス・ビーチャム
演奏:ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
編集:レジナルド・ミルス
美術監督:ハイン・ヘックロス
録音:ゴードン・K・マッカラム、チャールズ・プルトン
テクニカラー撮影:ジョージ・ガン、E・ホーグ
振付:ロバート・ヘルプマン、レオニード・マシーン
出演:モイラ・シアラー、アントン・ウォルブルック、マリウス・ゴーリング、ロバート・ヘルプマン、レオニード・マシーン
1948年イギリス映画/カラー/136分/スタンダード/モノラル ※デジタル上映
配給:デイライト、コミュニティシネマセンター
© 1948 Carlton Film Distributors Limited. All Rights Reserved. Licensed by ITV Studios Global Entertainment Ltd. and Distributed by Park Circus Limited.
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山本政志監督は大好きな監督である。バブル華やかりし80年代末、大学生だった私は、一見バブル経済と関係なさそうで、今にして思えば、バブルと表裏一体の関係にあった、いわゆるインディー系ロックのライブやクラブに入り浸っていた。だから、『ロビンソンの庭』(87)を観たのも、毎週のようにライブに通っていたJAGATARAが音楽を手掛けているのがきっかけだったのだが、この映画を観て、邦画にもこんなぶっ飛んだ映画があるのか!とショックを受けたのだった。シネフィルでも何でもなかった私は、石井輝男も神代辰巳も若松孝二も知らずに勝手にショックを受けていたわけだからいい気なものだが、当時の私にしてみれば、これ程"自由"という感覚を味あわせてくれる邦画はなかった。今のようにネットもなく、情報は自ら貪欲に収集するものだったから、ひとつひとつの作品との出会いは今よりも濃密なものだった。それ以来、山本政志という名前は私にとって特別なものとなった。
しかし、その直後に3年程NYに渡米したこともあって、邦画を観る機会はますます減少し、帰国後も山本監督の作品に触れる機会を逸し続けて来た。話では、熊楠についての映画を撮ろうとしているが資金難に陥っているという噂がどこからともなく伝わってきて、とても残念に思っていた。中上健次や中沢新一といった、当時よく読んでいた作家や思想家の文章でごく頻繁に目にしていた"熊楠"を、『ロビンソンの庭』で藤子不二雄の短篇SF漫画的に繁茂する"緑"で東京の廃屋一体を覆い尽くした山本政志が映画化するなんて、これほどゾクゾクするアイディアはない!と思ったし、今でもそう思っている。そんな思いを内に秘めたまま、現在に至り、ついに、約20年振りに山本監督の新作と向き合う時が来た。
新作『スリー★ポイント』の試写は、3.11の震災の余波が覚めやらず、原発の状態も今よりも更に不透明な事態の最中に行われ、試写の上映前に挨拶に立った山本政志監督は、「黒い雨の降る中、命をかけて試写に来てくださってありがとうございます」というブラックな冗談交じりの謝意を表し、場の空気を和らげた。確かに、その時分の"雨"にはそんな緊張感があった。
『スリー★ポイント』は、『NN-891102』『おそいひと』『堀川中立売』と独自の拡散的進化を続ける柴田剛とのコラボレーションが凶暴な効果を挙げて暴走する街「京都」、繁茂する緑をピローショットに収め、ボケとツッコミを兼ねる監督自らが画面に登場し、キャメラに親しげな表情を見せる基地の街の人々の懐に入り込む、そんな南国の日常の中から自ずと立ち上がってくる"笑い"と"問題"が交錯する「沖縄」編、村上淳という俳優の魅力を再認識させ、青山真治が"本当の"友情がなければ恐らく出演しなかったに違いないと思われる"嫌な野郎"を演じて見せる、ささくれ立った人々の精神に不穏なパラノイアを生み出す街を予見する「東京」編、の3編で構成されるが、その3編がそれぞれあまり関係していないように見えて、その実、全く関係していないという構成がそもそも"自由"だ。しかし、そんなカオスこそが現実であり、自然であるという意味では、その3地点に濃厚に凝縮された現代日本の曼荼羅が本作では鮮やかにキャプチャーされている。
ただ、20年前に『ロビンソンの庭』に惚れたものとして、正直に言わせて頂くと、緻密に構成された「東京」編やユーモアに満ちた「沖縄」編よりも、凶暴さが画面を震わせる「京都」編が一番痺れた。怒りを静かに内に秘め、抑制された禍々しさに満ちた男たち、そして、荒れ狂う女、リサを演じる平島美香の野蛮な身のこなしに、『ロビンソンの庭』の主人公クミを演じた太田久美子を彷彿させる、山本政志的凶暴な女の系譜を見る思いがし、ザワザワと胸が騒いだ。
渋谷ユーロスペースにてトークショー
5月28日(土) 松江哲明(映画監督)×横浜聡子(映画監督)×山本政志
上映終了後23:00開始 23:25終了 |
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5月14日(土)より、渋谷ユーロスペースレイトショー絶賛上映中
監督・脚本・制作:山本政志
ラインプロデューサー:柴田剛、山本和生
出演:村上淳、蒼井そら、渡辺大知、小田敬、BETTY、KO-YOTE、SEVEN、SNIPE、青山真治、他
2011年/日本/117分/カラー
配給:レイライン
© スリー☆ポイント シンジケート
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