『レイモン・ドゥパルドンのフランス日記』TIFF2012 WORLD CINEMA

親盛ちかよ
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写真家として知られるレイモン・ドゥパルドンの半生を綴るドキュメンタリー。キャンピングカーでフランス各地を訪れ写真を撮るドゥパルトンの映像と、過去の未発表フッテージが織り交ぜて映し出される。妻であるクローディーヌ・ヌーガレが、一緒に仕事を始めたときからの記憶も含めて、レイモンと交互にナレーションをいれている。「カメラで聞き、見つめること」を追い求めるレイモン。潔癖なまでのストイックさで、被写体が実物以上に見えないよう、シャッターをきる。その作業は、自身の客観性の排除、すなわち「自我の無」に帰結するのではなく、真実を追求する自由、または解釈の余地を多く残すための策であるように思う。フランスを撮る為にもっと外国を旅するべきだったという言葉にも、解釈を広げてひとつのテーマに向かう彼の姿勢が垣間見える。

クローディーヌを録音技師としてインタビューした際の映像なども映し出されるのだが、この映像については、最初からクローディーヌに対する彼の好意が感じられ微笑ましい。妻としてのナレーションの内容を聴くにつけても、史実の観察者となり紛争地帯や精神病院などを撮影してきたレイモンの人生に、そんな彼を見守るクローディーヌという存在のあることが尊く思えてならなかった。この作品は未発表フッテージを含む映画作家の日記という形式をとっているが、ドゥパルドンとクローディーヌという夫婦についてのドキュメンタリーでもある。

『檻の中の楽園』TIFF2012 natural TIFF

親盛ちかよ
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ドゥニ・コテによる静謐なドキュメンタリー作品。ナレーションや音楽はない。稀に、バックグラウンドの遠い会話の声をカメラが拾う。文明社会にある動物の姿を固定カメラで切り取ったフレームは、ドライな目線を保っている。原題の"Bestiaire"は「動物誌」の意。観る者に一切の理解を委ねるこの映画のスタイルを尊重して邦題も「動物誌」に停めるべきだったのではと思う。

スケッチの場面、鉛筆のはしる音で映画は始まる。クラスでは複数の男女が子鹿を描いている。剥製の複雑な毛の模様が少しずつキャンバスに写されていく。彼らはそこに何を観ているのか?姿形を模写する作業に熱中しているのか、その背景に森や親鹿をみているのか。

カナダはケベック州、冬のサファリパーク。アップで映る動物の濡れたピンク色の鼻が小さく動く。漆黒に光る目は真直ぐにカメラを見つめており、観客はしばし黙想的な眼差しの交換をすることとなる。涙にぬれる黒目は瞬きもせず、思慮深くこちらを観察することを止めない。

テーマパークの舞台裏では着ぐるみをきたキャストが頭を外して休んでいるが、出番が近づき自分でジッパーをあげて出て行く。剥製師の工房では、鳥の体に詰める発泡スチロールを成形している。サンダーで鳥らしい丸みを帯びた形に削っている。肉を取り除かれた首や足は針金で固定される。動物園では熊にエサをやっている。後ろ足でたった数匹の熊が順番を待って投げられた魚を上手にキャッチしている。夏の動物園には賑わいが増す。悠々と歩くキリンの前に渋滞するサファリの車。

鑑賞後に抱いた感情は整理するのが難しい。「人」という動物とその他の動物の関係に然したる進歩はない。乱獲など極端な例をあげずとも、愛着や憧憬の果てにすら、こちら側の都合で生きることを私達は一部の動物に強いている。

静寂がひろがる映画館で、動物が小さく鳴らした鼻の音を聴く時、4本の足が固い地面を踏み走る音を聴く時、誰しもが、文明だのデジタルだのをすっ飛ばして呼応する生命の深淵に引き戻される自分に気がつくだろう。そこには言葉やコードを必要としないコミュニケーションが存在する。命の連携・連帯は自然界の最も洗練された法則に則り、私達の心を捉えてやまない。人は、どんな先端機器で装備したとしても、結局は、この寡黙な友人達と同じ世界の住人なのだ。

『老人ホームを飛び出して』TIFF2012 アジアの風 - 中東パノラマ

親盛ちかよ
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それぞれ問題を抱えた老人達が、周囲の反対を押し切ってテレビの仮装大会に出演するために天津のテレビ局を目指しバスの旅に出る。後半にすすむにつれ、みんなの結束が固まり問題が解決されていくポジティブで明るいストーリー展開を、ベテラン俳優人が情感たっぷりに演じている。かねてより中国にはシニアの味のある役者が多いという印象をもっていたが、本作を観てその思いを新たにした。

このような博愛主義の精神と、笑いを力にする物語を中国映画に観ることは、このご時世にあって特に意義深く感じられる。親と子の関係を重視する儒教の国でありながら、昨今のジェネレーションギャップに苦しみ、老人施設では、人としての生き甲斐や尊厳以上に、介護をする側の責任リスクを軽減するような引き算の介護がなされているという設定である。

この施設の責任者である孫世代の女性がいう、母親と接する時間を全て合計すると、もう何ヶ月もない現実に怖くなる、という言葉はリアリティがあった。時間に追われる現代人であれば誰しもの心を過る悩み。

この映画において、救いは、創造と笑いにある。仮装大会への出場を通して、目標に向かって団結しクリエイティブな出し物を考える充実感、ただの体操ではなく目的をもった身体の鍛錬、自分自身が充実し前向きに振る舞うことで改善されていく人間関係など、取り戻せたものの多さに満足感を味合わせてくれる終盤。暖かい気持ちにさせてくれる映画である。

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