『大陸』は、カウリスマキの『ル・アーヴルの靴みがき』同様、海を渡ってやってくる"難民"という存在に直面した時の、その土地に住む人々の振る舞いを描いている。博愛の精神が漲るファンタスティックな寓話を通じて、より善き未来の可能性をカントの統制理念的に提示する『ル・アーヴルの靴みがき』と比べ、ネオレアリズモの視点を踏まえた『大陸』は、新しい時代の変化に戸惑う漁民の側に軸足が置かれている。夜の漆黒の海面に群がる黒い肌の難民の姿は、未知のものに対して人々が覚える恐怖を象徴する以前に、その即物性が観るものに鈍い衝撃を与えるだろう。
このシチリアの離島(リノーザ島)には、2種類の人々が海を越えてやってくる。ヴァカンスを利用して離島の夏を楽しみにやってくる"観光客"と、距離的には存外に近い場所に位置するアフリカ大陸からの"難民"たちである。映画は、この2者のコントラストを、"光"と"影"のヴィジュアルで鮮明に描き出している。"観光客"は、漁業が衰退する今、島の人々にとって重要な収入源となっており、映画は、彼らを文字通り"ブロンド"の光り輝く存在として描き出す。一方、"難民"の存在は、その存在自体が観光客を誘致したい島の住民にとっては、迷惑以外の何者でもなく、そこにはコスモポリタン的発想から生じる浅薄なヒューマニズムが入り込む余地はない。
海を超えて"揺るぎない大地(原題:Terraferma)"を目指しながらも、多くの難民がこの地中海で命を落としているという事実を踏まえた、"今や、漁業をしても網にかかるのは生きた魚ではなく、生きている、あるいは、死んでいる人間である"という悪夢的な現実を表現する漁民から発せられた台詞は、事のリアリティを如実に表現している。
僅かな光しか届かない暗澹とした水面下とは対照的に、本作のメインビジュアルに採用されている、"観光客"がクルーズ船から飛び込む瞬間を捉えた、あまりにも開放的でイタリアのラテン的陽気さを象徴するこのシーンは、本作を輝かせる表層的な"光"として機能している。政府や地方自治体は、こうした"陽"のイメージを観光客の誘致に利用するに違いないが、この"楽園的イメージ"に惹かれて本作を観ると、実際にはその水面下の悪夢的現実について知らされることになる。
さらには、海と生活を共にしてきた老人の世代は、漁業を続け、若い世代に"海の掟"や"生きざま"を伝えていきたいという希望を持っているが、家族の中核を成す現役世代は、老朽化していく漁船を、観光クルーズ船に買い替えることをに補助金を支給するという政府の方針を歓迎していく、そんな世代間の葛藤も描かれていくだろう。クリエレーゼ監督は、そうした現実の問題を、何者かを声高に批判することなく、"光"と"影"の象徴的なイメージとして明確なコントラストを形成しながら、叙事詩的に描写している。
ネオレアリズモの血脈を感じさせながらも、本作のエッセンスを"影"ながら象徴する、夜の漆黒の海面に群がるアフリカ難民の描写において優れたイマジネーションを発揮しているというべき監督の映画的資質は、クレール・ドゥニの『ホワイト・マテリアル』(08)におけるアフリカに対する拭いきれない悪夢的イマジネーションを直接的に想起させながら、サミュエル・フラーの『ホワイト・ドッグ』(82)におけるレイシズムと"ノワール・フィルム"の結合まで、映画における人間の魂の暗黒描写の系譜を観る者の脳裏によぎらせる。
だから、ピナ・バウシュらとの共演でも知られるフランスのミュージシャン、ルネ・オーブリーの煌めくようなアコースティック・ギターの調べが鳴り響くエンディングで、暗い海の上を、贖罪の意識で船を進めた主人公の青年が、晴れて"大陸"に辿り着き、彼女を無事フランスの港まで送り届けることが出来るという保障など、どこにもないのだというべきだろう。