「桃まつり presents すき」壱のすき

上原輝樹
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天野千尋監督の『フィガロの告白』は、イオセリアーニ監督の「真面目に映画を作ろうなどと考えないでください」という言葉をまさに地で行ったような映画である。しかし、これは個人的な感覚の問題だが、NYにおけるSEX依存症の男の苦悩を描いた映画同様、浮ついた男子中学生の思春期の煌めきを描いた本作の主題には左程興味を持てなかった。それでも、完成度の高い四人組のキャラクター造形とキモち悪いほどリアルな会話、よく整った編集のリズムといった映画作りの上手さに引っ張られ観ていると、思わず吹き出してしまう瞬間もあった。

「忘れてた。そして、素晴らしかった。」とノートに書き付ける"言葉"で始まる小森はるか監督の『the place named』は、夏の終わりを告げる虫の"音(ね)"がその季節を印象づける、ふと一瞬、その"音"の主たちが生息している辺りを映したかと思いきや、形容不可能な暗闇が画面に拡がり、台詞のようなものを語る複数の声が聞こえてくる。その暗闇を、窓だけが明るく光る物体が左から右に走り抜ける瞬間に、私たちは、その暗闇が何で構成されていたのかを知ることになる。そんな夜が明け、朝が来ると主人公の女性は簡素な服装に身をつつみ、おばあちゃんに、行ってきますと挨拶し、出かけて行く。家の周囲を包む豊かな緑が目に映える、朝の空気の中、主人公の女性は単線の列車に吸い込まれていく。キャメラは、五人の人物が殺風景な空間に集まって、台詞の練習をする若者たちを捉えている。「ずうっと前から、ここに、いたならいいのに。生きてる人にはわからないのね?そうでしょ?」という台詞が頭に残る。

どうやら、列車に乗り込んだ女性は、新米教師だったようで、これから始まる新学期に備えて、誰もいない教室で下準備に勤しんでいる。その彼女が、生徒たちに向けて新学期の挨拶を演習する"言葉"に被さって、「もう一度、帰って行って、あの日を生きられる」という言葉が聞こえてくる。このあたりから、何かとても怖い、この世ならざるものの気配が濃厚に映画に漂い始める。この主人公の女性と、五人の若者が台詞の練習に興じるシーンとの関連は?この交互に行ったり来たりする関係を形作る視線は一体何なのか?何か、今、ここにいないもの、失われてしまったものの気配が映画を濃厚に支配はじめている。まさに、あの世とこの世の間で宙づりになった "the place named" の死者の視線で構成された、充分に生きることがならなかった魂の、"生きること"への憧憬に満ちた、"声"と"言葉"があの世とこの世を繋ぎ止める戦慄的に美しい映画である。

竹本直美監督の『帰り道』は、
『the place named』が原作戯曲の時点で超えている"現実"と"虚構"の境界線上で立ち止まってしまい、もはや、私たちには帰るべき"わが町"などないのに、一体どこへ帰ればいいのか?と考え込んだまま、とりあえずは故郷に帰ってしまった主人公を描いた映画に見えた。ここでもう一度、イオセリアーニ監督の「真面目に映画を作ろうなどと考えないでください」という言葉を想起してもよいのかもしれない。

それにしても、戯曲(ソーントン・ワイルダー「わが町」)の読み合わせをする彼女/彼らの言い回しは、どのように演出されたのだろうか?と疑問に思い、資料を見たら、「作品に出演してもらっている原麻理子さんが舞台稽古のシーンの演出をし、稽古が進行していく中で撮影を行いました」とあった。独特の台詞回しが実に印象的で、彼女の芝居にも興味を覚えた。この台詞を発する独特の"呼吸"が、『the place named』でこの世とあの世の中間を漂う何ものかを召還しているように思えるからだ。



2012年3月17日(土)〜30日(金)
ユーロスペースにてレイトロードショー 連日21:10〜

【壱のすき 3月17日(土)〜21日(水)】
竹本直美『帰り道』、天野千尋『フィガロの告白』、小森はるか『the place named』

【弐のすき 3月22日(木)〜25日(日)】
ステファニー・コルク『春まで十日間』、上原三由樹『口腔盗聴器』、熊谷まどか『最後のタンゴ』

【参のすき 3月26日(月)〜30日(金)】
星崎久美子『さめざめ』、佐藤麻衣子『LATE SHOW』、名倉愛『SAI-KAI』

桃まつり presents すき

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