「セカンドライフ」にハマる人々の生活を追ったドキュメンタリーである本作は、「セカンドライフ」と聞いた途端に感じてしまう、ある種の"居たたまれなさ"からどのように逃げ切ろうとしたのだろうか?
本作に実際に登場する彼/彼女らの言動は、「セカンドライフ」にハマってる人ってこんな感じの人じゃないかなあ、と一般の人々が漠然と抱くイメージを大きく裏切ることはないだろう。少なくとも、私の場合はそうだった。
かつては、ものものしく"仮想空間"などと呼ばれて非現実視されてきたネット空間が、フェイスブックやツイッターの普及もあって、今や"現実の延長"として私たちの生活に定着しつつある。同様に、本作に登場する登場人物たちも、「セカンドライフ」上で猫(ファーリー、毛皮に覆われたキャラクター愛好家)のものは現実生活でも猫の着ぐるみを身につけ、現実の聖職者は「セカンドライフ」上でもクリスチャニティを説き、"奴隷"は現実生活でもBDSM的生活を送っている(ようなのだが、この3つ目については、ツッコミ過ぎてお下劣になるのを避けたせいか、よく実態がわからなかった)。
このドキュメンタリーが、当初の"「セカンドライフ」にハマる人々の生活を追う"という宿題を律儀にこなすだけのものであったとしたら、「カプリッチ・フィルムズ ベストセレクション」としてこの場で上映されることもなかったかもしれないが、映画は終盤になって思いもよらない展開を見せる。
キャメラは、突如として、砂漠地帯にCの字でレイアウトされた建物が並ぶ土地を空撮で捉える。そして、その謎めいた地に降り立ち、烈風が吹きすさぶ砂漠地帯にキャンピングカーで乗り付け、そこで風に吹かれながらテントを張る人々や、奇妙奇天烈な造形物、巨大な人形といったおもいおもいのアート作品、生身の裸の女性がくるくる回る"人間バーベキュー"といった、フェリーニ的祝祭空間とでも言うべき得体の知れない人々の自由な姿を捉えるだろう。これは米国ネバダ州で年に一度行われる巨大イベント「バーニング・マン」の風景であるという。
ネット上に他人の目を気にせず好きなコミュニティを作るというアイディアから始まった「セカンドライフ」の起源は、実にアメリカらしい"自由"を夢想するヒッピー・カルチャー、DIY精神の具現化である「バーニング・マン」にあったという、まさに"ラディカル"="根源"に行き着いた時点で、様々な波乱含みのテーマを観客に向けてボンッと投げ出して、この映画は見事に逃げ切ってしまう。
そして、「バーニング・マン」が具現したような"自由"と結びついた"ラディカルさ"="急進性"は、アメリカ以外の土地から出て来た試しがないということを、モンテ・ヘルマン監督の新作『果てなき路』で活用されたデジタル技術に接する態度に確認したばかりの者にとって、明日、boidの樋口泰人氏がこの場に登壇してカプリッチ・フィルムズ代表のティエリー・ルナス氏と対談をするというのは、あまりにも完璧な流れだというほかない。