OUTSIDE IN TOKYO
KALTRINA KRASNIQI INTERVIEW

越川道夫『水いらずの星』インタヴュー

5. ある舞台を見ていた時、短い芝居の中に一生があるなって思う時があるんですよ。
 それを、映画的にどう出来るか

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OIT:『水いらずの星』を拝見して大変素晴らしいと思ったのですが、男役の梅田さんの受けの演技もとても良かったのですが、河野さんの“顔”が、この映画の主戦場と化していて、何人もの女性が乗り移ったかのように、どんどん変わっていくんですよね。光と影の演出もあったのかもしれないのですが。
越川道夫:基本的にそんなに照明も当てているわけではありません。撮影監督の高野さんが、そこにある光をどう呼び込むかっていうことだったりすると思います。テクニカルなことであるよりは、OKをどう出すかっていう時に、この女の一生が映画の中に全部あればいい、と思いました。だから、高野さんがカメラを置いて、河野さんが芝居をして、テストをやりますよね、その時に、あ、これ老婆になってるってなったら、それがいい、ここは少女でなければいけないから、そういうふうに演出して、というふうに。一人の女性が人生の中で見せる“顔”が全部、一本の映画の中に写っているようにということは考えてました。幼い頃の顔も老婆になった顔も。

OIT:それは具体的な演出として、例えば、“老婆”というようなワードを出したりしたのですか?
越川道夫:しないです。あくまでも戯曲に即した演出をしていって、それが老婆的になっていくのであれば、それは“老婆”だし、その後、また男が来て華やげば、それはまた変わっていって欲しいわけです。それはでも、実は古典芸能のあり方なんだと思うんですよね。要するに、古典芸能には限らないんですけど、舞台を見ている時、短い芝居の中にその登場人物の一生があるなって思う時があるんですよ。それを、映画的にどう出来るか、ということなのだと思います。

OIT:この2時間40分位の中で。
越川道夫:そうです。それが全部入っていればいいんです。

OIT:それは凄く伝わってきました。
越川道夫:それは良かったです。

OIT:その女性の一生というものと同時にですね、もう一方ではテキストの抽象性と言いますか、例えば、“塊”と“魂”という言葉(漢字)が似ていて、気持ち悪いというセリフがありました。それは、言わば、テキストが現象化するという事態が映画の中で展開していくということだと思うんです。そのセリフに限らず、随所でそうした事態が展開していて、とても面白いなと。越川監督は戯曲を読んだ時に、そういった点に魅力を感じられましたか?
越川道夫:上原さんの言葉に合っているかどうか分からないんですけど、僕の癖なんだと思いますけど、僕は、モノは勝手に喋り始めた方がいいと思ってるんです。要するに、何か手に取ったものを置かれると、その手に取ったモノがね、勝手に喋ってるように撮れたらいいと思ってるわけです。例えば、あのスプーン単体が映った時に、この女に関わったことによって、スプーンが何かを喋り出しているように撮れたらいい、と。それが喋り始めているように見えるように撮る、それが多分、テキストをどう現象化していくかっていう問題と似てるのかもしれないと思います。人間が喋って何かを始動していくというよりは、人間に関わったモノたちめいめいが言葉を喋り始めているように映らないかなって、いつも、どの作品を撮っていても思ってます。そういうことを細く、ずっとやってるんだと思います。

OIT:映画の原理的には逆というのは変ですけど、映画って、凄く即物的なものだと思うんですけど、モノではない、テキストの即物化という、逆のことをやってらっしゃるのかなと。
越川道夫:あー、なるほど。即物的ということでいうなら、「モノ」が持っている「深さ」、これは即物的だと思いますが、この「深さ」を「モノ」たちが話し始めないかと思っています。僕にとっては「言葉」もまた自分というものに属さない即物的なものなのかもしれません。僕は常々、自分は「言葉」で出来ていないし、「言葉」と仲が悪い、と感じています。

OIT:そこがとてもユニークだなと思うんですけど、『水いらずの星』を見ると、話としては結構悲惨な話なわけですが、見終わった後味は凄くいいんですよね。凄くスッキリして見終わってしまう、そういう感覚に繋がっているのかなと思ったんです。全ては見終わったら跡形もなく無くなっていく、だけど、映画を見ている2時間40分の間は、物凄く濃密でリアルな時間が息づいている。
越川道夫:そういう意味で言うと、テキストという人間の営為であるものをモノ化して、どんどん置いていくっていうことを繰り返しているのかもしれません。この映画を撮っている途中で、ここにある全てを海の中に沈めなくちゃいけないなっていう、海に返さなければならないという割と根拠のない確信がありました。海のシーンを撮っていた日に、あの海の上でキラキラ光る、波光ですね、あれをちょっと撮っておいて下さいって言って、カメラマンに撮っておいてもらってるんです。多分使うからって。その時に、一番最後に映画が終わった時に、ストップモーションにした女の顔を海の中に沈めて、この作品全体を海の中に沈めて終えるっていうことをしようと思ったんですよ。そうしなくちゃいけないんだって。

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