OUTSIDE IN TOKYO
KALTRINA KRASNIQI INTERVIEW

越川道夫『水いらずの星』インタヴュー

2. 青山は撮る人間だ、僕らは撮る人間なんじゃなくて、青山が撮るべきだって思っていた

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OIT:なるほど、もう早くから映画にまつわるあらゆる現場を経験してきたわけですね。
越川道夫:そうです、映画の仕事は揺り籠から墓場までやりましたね…。

OIT:その後に配給会社で働き始めたわけですか?
越川道夫:俳優座シネマテンの小塚さんからちょっとうちのこともやってくれないかと誘っていただいて…当時、俳優座シネマテンは劇場として配給をしたり、宣伝をしたりしていました。そこで、昼間は配給と宣伝をやって、劇場を運営する社員として働いた。運営も俳優座シネマテンから小塚さんを中心とするシネマ・キャッツの体制になって、名前もトーキーナイトに変わり、ギャスパー・ノエ監督の『カルネ』(1991)なんかを上映していた時代です。

OIT:90年代ですね。ミニシアターも全盛を過ぎた頃ですかね。
越川道夫:そうですね、僕らの頃にはもうすでに冬の時代って言われていましたが、爛熟期だったと思います。別の劇場で、佐々木敦さんや阿部和重さんがスタッフとして働いていたりして、そんな時代でした。

OIT:その少し後がスローラーナーですか?
越川道夫:渋谷に新しい映画館シネ・アミューズが立ち上がることになって、李(リ・ボンウ/李鳳宇)さんたちから声をかけてもらい、その立ち上げをやった。その後、配給会社ビターズエンドを手伝ったり、それも辞めて、家で寝ていたら、アテネフランセの松本(正道)さんから、フリーになったんなら手伝ってくださいと言われて、フリーで宣伝をやり始めたら仕事が続いて…という感じでしょうか。

OIT:スローラーナーでは、ソクーロフ『太陽』(2007)などの配給をされて、そこでプロデュースも始めるわけですね。第1作目が青山監督の『路地へ 中上健次の残したフィルム』(2001)ですか?
越川道夫:そうです。今でもそうですが、“青山が撮るべきだ”っていうのがずっとあったんです。青山は撮る人間だ、僕らは撮る人間じゃなくて、青山が撮るべきだ、と思っていました。『冷たい血』(1997)の後、二人で喋る機会が割とあった時期に、中上健次というのは僕らにとって大きかったので、あの『熊野集』にある16mmのフィルムっていうのは本当にあるのかね?っていう話をしていたところ、吉増剛造さんの会でそれが上映されたっていうことを聞き、中上かすみさん(紀和鏡として知られる作家、中上健次の妻)に連絡をして、その中上のフィルムを中心にした作品を青山が撮る、井土(紀州)と青山でやろうってことで始まったのが、『路地へ〜』です。別にプロデューサーをやりたいってことではなくて、純粋に中上健次に、僕もそうですけど、青山も井土もそれぞれの形で中上健次に拘っていたので、だったら作品化したらいんじゃないか、ということだったんです。

OIT:映画をプロデュースするぞってことでやったわけではなく、有機的な繋がりの中で、自然とやるべきことをやったということなわけですね。私は、個人的には、2010年代に、『トルソ』(2010)、『海炭市叙景』(2010)、『ゲゲゲの女房』(2010)、『夏の終り』(2010)、『楽隊のうさぎ』(2013)といった作品のプロデューサーとして越川さんのお名前をよく拝見しておりました。その頃はプロデュースに専念されていたのですか?
越川道夫:いえ、配給・宣伝と両輪です。奥原浩志監督の『青い車』(2004)を作った時は、自分が配給・宣伝をやりたい作品っていうのは待っていても中々難しいのではないかと、だったら自分が作るところから関わっていった方がいいんじゃないかと思い、『青い車』を企画し、プロデューサーっていう形で作りました。それから段々に作る方の比重が増えていったのだと思います。

OIT:作る方の比重が増えていって、2015年には自らの監督作品『アレノ』を作られた。
越川道夫:別の場所でも言いましたが、僕は必ずしも監督がしたくてこの世界に入ったのではありません。配給も宣伝もプロデューサーも監督、「映画の仕事」ですし、それは役割が違うだけで、僕の映画へのスタンスは変わらないのです。そもそも山田真歩さんで映画を一本作るという話があり、一年ぐらい試行錯誤していたのですが、なかなかうまく立ち上げられず、所属事務所のユマニテの畠中さん(畠中鈴子/ユマニテ社長)や本人の熱意にどうにか応えたい、山田真歩という一人の女優への愛情が、そういう決断をさせたのだと思います。

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