OUTSIDE IN TOKYO
DIRECTORS' TALK

レクチャー:オタール・イオセリアーニ監督マスタークラス

5. 自分の世界と自分の民族と共に生きて、
 何かいいものを作って他の人々を助けてあげて下さい

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ですから群衆向けに作品を作ってはなりません。群衆に向かって語りかけてはならないのです。私自身は一人娘がいます。私の娘は、もし私が一歩でも誤った方向に歩みを踏み出したとしたら、私のことを許してくれないでしょう。幸いなことに娘だけではなく、私の友人達も私のことをしっかり羅針盤を持って間違った方向に行かないか見張ってくれています。とてもクリーンで純粋な人々の方が多数派になって、その人々がお金、資金集めが難しくて観客にも好まれないような作品を作り続けていくとすれば、それはいいことになるかもしれません。けれども実際、観客の好みは商売人が作り出すものです。例えばアメリカに住んでる人々みんなを天使だと思ってる人がいるかもしれません。ジェームズ・ボンドの007シリーズは、酷い作品ですが、それは観客に対して贈られた贈り物だと思っている人がいるかもしれません。西部劇も同じように素晴らしいプレゼントだと思っている人がいるかもしれない、それはみんな嘘です。西部劇は嘘ですし、本当にそうした状況は嘘です。アメリカのアクションが出て来る映画は全て嘘です、虚偽です。

私達全員は死ぬ人間でありますから、いつかは死んでいく人間でありますから、我々は苦しみ考えます。そして全て終わりは悪いだろうと知っています。だからこそ我々死にゆく運命にある人間はお互いに連帯をすることが必要でしょう。ですから単にお金儲けのこととか、地上の生活は悲惨だとばかり考えていてはいけません。自分の世界と自分の民族と共に生きて、何かいいものを作って他の人々を助けてあげて下さい。我々が手を取り合わないと、我々はもうおしまいです。手を取り合うこと、それこそが本当の映画だと思うのです。映画という危険なものに手をつけた人、それが各人の責任がそこにあります。そして映画の仕事をするということは、自分の良心に対して試験を行うことにもなりますし、自分の魂の豊かさ、そして奪うのではなくて他人に与える可能性についても試験を行うことになります。

もう一つアドバイスがあります。私達各人が何かを考えます。また同時に他の人々の思想も存在しています。その他の人々、ひょっとしたらホイットマンかもしれないし、トマス・モアかもしれない、レオン・トルストイかもしれません。但し彼らのことを自分の脚本家だと思ってはいけません。「戦争と平和」ではなく、多分「アンナ・カレーニナ」でしょうけれど、「アンナ・カレーニナ」の映画化は16回以上されています。そしていつも全ての人が素晴らしいと言います。また人々が大好きなのはチェーホフです。私、チェーホフの芝居を見て涙を流している人を見たことすらあります。チェーホフのせいで私、一人の友人と出会うことになりました。モスクワの映画作家の家から出ていこうとしていました。そして私は当時のガールフレンドと一緒で、女友達が観たばかりの映画について「この映画はチェーホフのように素晴らしかった」と言ったのです。それで私は彼女に対して「僕はチェーホフは大嫌いだ」と言ったんです。そうするとその答えを聞きつけた一人の紳士が近づいてきて、「今何と言った?チェーホフが嫌いだって?私のことを嫌っているのか?何を恨んでいるのか?」という言い方をしました。私はチェーホフが嫌いだと言ったのですが、当時のロシアでは「チェーホフが嫌いだ」というのは絶対に発音できない言葉だったのです。私自身に対してその人は「一緒についてきなさい」と言いました。その映画作家の家ですが、とても気持ちのいい所で、例えば様々な部屋がありました。私について下に降りなさいとその人に言われて、映画作家の家の地下に降りていきました。そしてその人は僕に向かって「ニコ、一人ゲオルギアの男でチェーホフが嫌いだと言った奴を連れてきた」。向こうの方から「そんなの嘘だろ?」という声が聞えてきました。そして私を連れて降りた人は「本当だ、自分の耳で聞いたところだ」と言いました。そうすると「入れ」という声が聞えました。

「入れ」と私を呼び入れた人はニコライ・エルドマン、当時の最高の戯曲作家、劇作家で20年のシベリア送りを終えて戻ってきた人でした。そして彼が「おいで」と言いました。「君に会いたかった、お酒を飲むかい?」というのが最初に聞かれた言葉でした。彼はチェーホフが嫌いでしかもお酒を飲む、そしてなぜチェーホフが嫌いかと聞かれました。そこで私はニコライ・エルドマンに対して、「チェーホフは原始的である、プリミティブである、しかも意地悪で甘ったるい」と言いました。そうするとニコライ・エルドマンは私を連れて降りた人に向かって「ボロージャ、聞いたかい?チェーホフの完全な定義が今出来上がった」。チェーホフが嫌いだから、チェーホフの問題は今どうでもいいのですが、チェーホフがいなかったとしても別に皆さんにはどうでもいいことです。世界中がチェーホフが大好きですから、チェーホフが亡くなったとしても気にしないのであれば、それは皆さんが世界の大衆全員と同じではないといういい例になります。あなたは監督であり、そして演出家であって、自分自身の思想の作者なのです。

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