OUTSIDE IN TOKYO
DIRECTORS' TALK

レクチャー:オタール・イオセリアーニ監督マスタークラス

2. 映画作りの中で使える道具は一つだけです。それは私達の良心、意識です

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私の方で、私の作品のワン・シークエンスをお見せしてもいいという風に言われて参りました。皆さん日本人でいらっしゃいます、私が承知していることは日本人はむしろ漢字文化ですからイメージが大切であって、言葉を大切にする文化というよりはイメージ、映像を大切にする文化だと承知しています。ですから私の言葉を聞くよりは私の作品の一部をお見せした方がいいでしょう。昔々作った作品で『群盗、第七章』(96)というタイトルです。どのように作られたかというのを見て頂きます。まずシークエンス全体を見て頂きます。それからそこでストップします。そしてその後、そのシークエンスがどのように準備されたかをご説明します。デクパージュ(カット割り)を見て頂きます。撮影台本の一部を見て、それからシークエンス、そしてその後全てを忘れて。私達の仕事は大変暢気にノンシャランに無頓着に見えます。けれどもその仕事を完成させるためには、かなりの汗を流さなければなりません。映画を作り始める時に、それは愉快な面白いことばかりではない、本当に仕事をして努力をしなければならないということを証明したいと思います。日本人は怠け者だという評判はないでしょう。働くことと、本当に考えること、本当に思考することとは異なっています。この部屋を出る時にはどのように自分をレモンを絞るように絞り出さなければならないのか、そしてようやく映画が出来るのはどうしてなのかというのを理解して、この部屋を去って頂きたいと思っています。

本当に映画は真面目なものではありません。映画作りの中で使える道具、楽器、インストゥルメントは一つだけです。それは私達の良心、意識、コンシャスです。映画を作る時、田舎者の成り上がりの人達に向かって話しかけるつもりで映画を作ってはいけません。群衆に向かって話しかけるつもりで映画を作るのもだめです。あなたと同じように考えをする、あなたのことを多分理解してくれるただ一人の人のために、その人に向けて映画を作るべきです。そのただ一人の人に伝えたいと思うことが何もないのなら、この職業に入ってはいけません。初めて溝口健二の映画を観た時、溝口健二は私に語りかけていました。他の誰に対しても話しかけていたわけではありません。フェリーニがそこにいなかったから、私以外の誰でもない、私に向けて溝口は映画を作ってくれていると思ったのです。ジャン・ヴィゴの『アタラント号』(34)を観た時も同じでした。ジャン・ヴィゴは『アタラント号』を私に向けて作ってくれていて、他の誰に対して作られた作品でもなくて。もしまだご覧になっていなければ、映画の学校の先生達にお願いをして、是非ヴィットリオ・デ・シーカの『ミラノの奇蹟』(51)を見せてもらって下さい。本当に素晴らしい作品です。日本の図像学の中に手で書いたのではない、心で書いた、精神で書いたという図像があります。『ミラノの奇蹟』はまさにそうです。

それでは映画の技術に移りまして、シークエンスを観て頂いて、それの読解を行い、そしてその後、今皆さんの頭の中にある馬鹿げた質問の全てをどうぞ私にして下さい。ご遠慮なく。馬鹿馬鹿しさ、それは人間につきものの固有の特質だからです。ですから馬鹿げたこと、私、完全によく分ります。馬鹿馬鹿しさには何の独創性もありませんから。では!

『群盗、第七章』のシークエンス、カット割り、撮影台本が上映される。
(監督・脚本・編集:オタール・イオセリアーニ、撮影:ウィリアム・リュプチャンスキ)


今ご覧頂きまして少しお疲れになったかもしれませんけど、これらのこと全てを考える方が観て頂くよりも疲れる行為です。このカット割り、撮影台本を作るには一ヵ月かかります。そして絵を描いて、それからまたやめて考える、自分は真面目な青年ではないので、お酒も飲めば煙草も吸う、馬鹿なこともやる、けれども翌日には全ての撮影を完璧に書いた図式、スキーマが出来上がっていなければならないんです。私の尊敬するとても親しい友人であるジャック・リヴェットは一日中撮影をして、夜、翌日の演出を考えます。私はリヴェットの代わりにはなりたくないと思います。私の現場の場合、夜、撮影スタッフ全員がお酒を飲んでリラックスをして楽しい夕べを過ごします。翌日、何をしなければならないのか準備が完璧に出来ているか、分っているからです。そして私の方は朝、撮影現場に二日酔いの頭をかかえて着きます。そしてポケットから今日の撮影はこれをするというものを書いた紙を出してきます。その紙に全てが書かれている、自分自身は二日酔いで目があっちの方向とこっちの方向と別々の方向を見ている状態であっても大丈夫です。全て準備してありますから。そして、落ち着いて少しずつ準備を進めていきます。私の方は向かい酒をやりながら昨日のお酒をだんだんに冷まします。そして俳優に衣装も着せなければならないし、時間がたって全てが整います。

お気づきになったかもしれませんが、私の場合ワンショットが長いです。ワンシーン、ワンショットがとても多いです。自分のことを真面目に取り扱って自分が真面目だと思ってるような映画監督は自分の同僚ではありません。まず一番辛い仕事は、全て映画を完全に予め作っておくことです。そしてその後現場に入って発明をして付け加えることも出来る。アメリカ映画の場合、皆さんもご自身で気を付けて数えて頂いて、私が間違っていたら言ってほしいんですけれども、アメリカ映画の場合いつも人がしゃべっています。それで、だいたい一本につき1600箇所のカット繋ぎがあります。映画の仕事をよく分っている人が作った映画であれば、一本の映画につきカット繋ぎは800を超えることはありません。アンドレイ・タルコフスキーと賭けをしました。今ご覧頂いた映画の場合、私の場合はカットの繋ぎは163箇所でした。タルコフスキーは私とした賭けに負けました。『アンドレイ・ルブリョフ』(67)で彼は300箇所のカット繋ぎをしてしまったからです。その賭けの対象となったのはビール一本でした。タルコフスキーは賭けに負けました。

長いワンシーン、ワンショットはそのショットの内部に編集がすでに含まれていることになります。ですからとても危険です。なぜ危険かというと長いショットの場合、そのショットの真ん中あたりであなたがエラーをしたとしたら、俳優が何か間違ったとしたら、あるいは撮影をしているキャメラマンが何か間違ったとしたら、それだけでそのショット全体がだめになるからです。ここであなたが編集をしている人だとすれば、そんな長いワンシーン、ワンショットを考えた監督のことが大嫌いになります。そしてワンシーン、ワンショットのことを本当に軽蔑します。そうしたワンシーン、ワンショットを考える時、自分はもう監督ではなくて編集者として見ます。そこでもう既に編集者の仕事が始まっています。その場合は映画の内容を破壊しないようにエレガントに切らなければなりません。もちろんこんな酷いワンシーン、ワンカットを作った監督のことを憎みながら編集者として切っていかなければなりません。

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