OUTSIDE IN TOKYO
DIRECTORS' TALK

レクチャー:オタール・イオセリアーニ監督マスタークラス

3. 字幕なしで言っていることが理解できなければ、その映画は映画ではありません

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一つだけ避けるべきこと、むしろ絶対禁止の事項があります。それは切り返し、カットバックです。カットバックは、正直な、そして映画作家であれば絶対に禁止です。カメラアングルは二人の鼻の間です。カメラはここから、まず通訳の顔を撮ります。私の頭が前のところに来ます。皆さんから見れば私は右側にいます、そして通訳は左側にいます。カメラを動かします。カメラの位置は変えますが、カメラの軸は鼻と鼻の間です。「こんにちは、お元気ですか?」と通訳が言います。「お前が耐えられない」と私が答えます。そしてカメラはこっち側にいっている。「お前が耐えられない」と言っている私の台詞はこちらのカメラから撮影されます。でも私は絶えずスクリーンの中では同じ方向を向いています。お願いします!少しでも私に対する尊敬の気持ちがおありだったら絶対にこれはしないで下さい、恥ずかしいことです。どんな装飾を作ってもいい、カメラをぐるぐる動かしてもいい、だけどカットバックだけは止めて下さい。あまりにも平凡で陳腐でアメリカ的だからカットバックは恥ずかしいものです。

このようなカットバックのような不幸な代物は一体どこから出てきたのでしょうか。それは無声映画が消えてしまったからです。無声映画の時代には映像を作っていました。確かにその時代、映像を作ることは楽しみでありポエジーでした。無声映画の場合、誰も相手の人の顔を正面から見えて、その話し相手の方は頭の後ろから見える、その逆っていうようなことは誰も考えませんでした。確かにクローズアップはありました、ただしそれは無声映画でも悪い映画です。誰かヴィットリオ・デ・シーカの作品の中でこのようなカットバック、相手の人が正面から見えて、こちらの人は頭から見える、またその逆っていうのをもし一個でも見つけたら100万ドル差し上げます。ジャン・ヴィゴにおいても同じです。首筋の人、それから正面からの人、それから正面からの人とこちら側の人は後ろの首筋からという、そういうカットバックのショットをもしジャン・ヴィゴの中に一個でも見つけたら、私の財産全てを差し上げます。とはいえ、私の財産はそれほど多くはありません。

映像に音がついた時、シンクロして、同時に音が流れるようになった時、映画において、アメリカ野郎達はキャメラを動かすことを止めてしまいました。そしてその後、映画の不正取引をする人達、映画のマフィア達が誰かを後ろから、そして相手は正面から、そしてその逆というカットバックを発明したのです。それが映画言語を破壊してしまいました。そしてその後、映画はおしゃべりになりました。「なんとお前を愛したことか、なんと悲しいことか、私を捨てていくなんて、なんて悲しいことか」、そうすると「確かに愛していました」「しかし、お前は私を裏切った」「そんなことはない、裏切ってはいません、いつも忠実です」「そんなことはない」それをカットバックでやって、目を閉じていてもその映画は理解できます。それはもはや映画ではありません。

私のアドバイスを聞く人は勝利するでしょう。映画作家になれます。私のアドバイスに従わない人は、映画を作る人にはなれても映画作家にはならないでしょう。私のアドバイスを聞いた方がいいのではないかとご提案申し上げます。多くの私の先駆者達が本当の映画を作ってきました。そして彼らは一度も単なるおしゃべりは作りませんでした。二つ目の規則、翻訳すなわち字幕なしで言っていることが理解できなければ、その映画は映画ではありません。映画で言われている台詞が全て理解出来るのであれば、それで映画の内容が理解出来るのであれば、目を閉じればいい、いつもしゃべっている映画にすぎないからです。私達の仕事はラジオ放送ではありません。私達の仕事は映像と音です。

しかし、音に関して一つご承知おき頂きたいことがあります。すなわち音楽に対しては警戒をして不信感を持って下さい。そしてあなたが愚かで馬鹿でどうしようもなければ、あなたの作品に音楽をつけて下さい、(ここでパッパララーラ、パッパララーラ、パッパララーと歌い出す)今歌ったような音楽(『地獄の黙示録』に使われたワーグナーの「ワルキューレの騎行」)をつけて下さい。(ババンバビバ、バンビバ、ボン、ウォウ、ウォウ、ウォウと歌う)今はアメリカ映画で危険を予知するもの、次、幸福(ターリラリラー、ラリーラーラと歌う)。ワーグナーという作曲家はコッポラの到来を夢みていました。コッポラが自分の音楽を地獄の黙示録にのせてくれることをワーグナーは既に夢みていたのです。例えばテレビでアメリカ映画がよく放映されていますから、それをつい見てしまうことがあります。そうすると実際になされていることがよく分ります。映画の始めに始まった音楽が終りまで映画音楽として続いていきます。このように映画の始めから終りまで音楽を入れていれ、厳密に言えば音はいらない、音楽が全てを作ってくれる、危険を予知し、幸福を告げる、全て音楽にあります。そしてまた、そうした映画音楽を作ることで忙しくしている映画音楽の作曲家達もいます。音楽は映画にとっては松葉杖のようなもの、一人歩き出来ない映画に対して松葉杖をつけるようなもの、すなわち映画の内容に音楽が取って代わるということなんです。

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