OUTSIDE IN TOKYO
SUZUKI TAKUJI INTERVIEW

鈴木卓爾『ジョギング渡り鳥』インタヴュー

8. どういう映画を撮るのであれポップソングを作りたい

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OIT:絵画で言うと抽象画?
鈴木卓爾:はい、現代アートの領域のもの。コンセプトがまずあるっていう。
OIT:それを映画でやっているっていうのが面白いし、まさに実験映画ではあると思うんですけど、ただ実験映画と言い切れないのはこの主題歌があることだと思うんですよ、この歌があるっていうのが大変素晴らしいなと。
鈴木卓爾:『私は猫ストーカー』(09)をやる一本目の時から越川さんと共通の認識としてあることがあって、今回は僕一人ですけど、どういう映画を撮るのであれポップソングを作りたい、ポップソングをやりたいねっていう意思統一っていうのがあったんです。それは今もそうだと思うんですよ、僕自身、だから『ジョギング渡り鳥』という映画には『ジョギング渡り鳥』という主題歌がなければいけない、だってこれはボップな映画だからっていう(笑)、それはなんかね感じてほしいし、そういう風にこの主題歌がもし上原さんに届いたのであればそれはすごく嬉しい。
OIT:だから僕はこれを売ってほしいと思ったんです、商品として。
鈴木卓爾:作った本人にあんまり自信がないのかもしれないけど、ただやっぱりこの映画はお金じゃねえなっていう風にみんな思っちゃってるところもあるから。
OIT:商業映画の話がきたら、どうしますか?
鈴木卓爾:うん、それはもちろん検討しますけど、ただ俳優の関わりというのをやっぱり刷新というか、新しくその方法論が模索出来ないとつまらないよねとは思ってるんですよ。そこはちょっと尾を引くなぁというか。諏訪(敦彦)監督なんかまさしくその先を行ってるなと思っていて。
OIT:諏訪監督いいですね、このぴあフィルム・フェスティヴァルの対談(http://joggingwataridori.jimdo.com/トップ/対談①/)素晴らしかったです。諏訪監督と鈴木卓爾監督、このお二人には日本でちゃんと映画を撮り続けて頂きたいなと、個人的には思っています。
鈴木卓爾:ありがとうございます。なんか流通の仕組みが変わらないとおかしいなとすごく思っていて、音楽の人達が今すごくタフだなと思うのは、今回の映画、テニスコーツの人に見てもらったりしたんですけど、インディーズでやってる音楽の人達というのは必ずしもメジャーの流通フィールドにあわせる必要を感じていない。
OIT:流通は、もう音楽の方が先に壊れちゃってますからね。
鈴木卓爾:そうしてみると一部の、まあメジャーという概念もあやふやなものになってしまっているし、音楽をやり続けることがむしろ生き残るっていう感覚ではなくて、やっぱり音楽をやり続けることで生き残れていくっていうことを選び取りしてますよね。そう思うと、映画作りってすごく膨大な時間と労力がかかるので、アーティストが一枚のCDを出す労力よりも多いってことは、うっすら段々分かってきましたけど(笑)、自分のやってることの量の多さがようやく。数が昔からなかなか数えられなかったもので、3以上(笑)、うっすらおかしいなと思ってましたけど。映画もね、そうは言ってももっと自由でいいって、多分それはずっと昔から70年代からそういう試みをみんなやろうとしてきたと思う、新藤さんも、独立プロも、ATGも、若松さんもやろうとしてきたけど、まあどっかで苦しんできたよねとは思いながら。でもやっぱり敢えて今言いますけど、必ずしも何千万円のお金がなければ映画は撮られて見られない訳では決してないはずだと思う、今まではそうだったかもしれないけど、多分流通の仕組みは変わらざるを得ないだろうと。そうするとどこにいても映画は作れて、もう一つはどこにいる人が作った映画でもどこでも映画はそこで見られるべきだなぁと思いますけどね。どうなんでしょうね、映画館という特権の場がそれを許さないのかどうなのか。
OIT:日本的な事情もありそうですけど、アメリカを見てると、iPhoneで撮った、ショーン・ベイカーの『タンジェリン』(15)とか、すごく面白いんですよ。だから、デジタルが可能性をどんどん拓いているという感じはあるかなと。『ジョギング渡り鳥』でもGoProを使われてますよね。
鈴木卓爾:使ってます、なんかインターネットで見られるっていうことだけではなくて、なんだろ。
OIT:結局ネットだけじゃ駄目で、iPhoneで撮ってもいいし、それが最初にYouTubeで話題になってもいいんだけど、どこかの映画祭でスクリーンで上映されるとか、そういうお祭りが一つかまないと映画としては成立しにくいような気がしますよね、やはり1回スクリーンで上映されるという、その後どういう風に流通してもいいと思うんですけど。
鈴木卓爾:なんか90年代のVシネマみたいですね、劇場公開作品って文字がパッケージに入るか入らないかみたいな。
OIT:一般公開で劇場公開されなくても、例えば、映画祭で観客や批評家の目に触れる機会がやっぱり必要なのではないでしょうか?ネットにアップされているだけではどうしても映画として成立しずらいんじゃないかなという感じがしますけど。
鈴木卓爾:そうなんですよね、ネットに出てる動画で言えば、映画というよりはもっと面白いアイテムとして使ってる映像の方がずっと面白くて。
OIT:例えばVICEっていうメディアがあって、アメリカのパンクカルチャーとジャーナリズムが合体したメディアで、ユースカルチャーという切り口で若者目線で何事も伝えている。元々はパンクとかタトゥー系のフリーペーパーだったんですけど、今やディズニーが出資する一大メディア産業になっちゃった。ネットにはそういうものが蠢いていて、VICEで作られているものもほとんど良質のドキュメンタリー映画と言えるようなレベルです。そうした状況の中で映画をコンテンツとしてそこに出しても多分そんなにインパクトは出ないかなと。また違う言語なのかもしれません。
鈴木卓爾:時間の持ち方がやっぱり違うんでしょうね、やっぱりネットの映像って特権性がないと難しい気がしますよね、猫が可愛いとか、猫が可愛いのは分かってるんだけど、可愛い猫がまたこんなことまでやってしまいましたみたいな特権性がないと(笑)、そこはニュース性が必要だったりしちゃうと映画のその時間の持ち方とはちょっと違って、映画って逆に言うとやっぱり眠くなったりしないと駄目なんだと(笑)、変な言い方すると退屈なものっていうか。映画の中にある、何かを呼び覚ます、揺さぶりをかけるものって絶対あるんだけど、それって可愛い猫がまたこんなことやっちゃいましたっていうニュース性ではなくて、もっと眠くなったりしかねない何かを共有しないといけない、そう思うとなんか町の公民館でこの映画をかけますよ、その日夜1回だけやります、来てくださいっていう、なんかそういう映画の見せ方みたいな方が手はあるのかなぁと。最早それは職業とかそういったことではないし、誰が出てんの、知らない人ですってことであったり。


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