OUTSIDE IN TOKYO
SUZUKI TAKUJI INTERVIEW

鈴木卓爾『ジョギング渡り鳥』インタヴュー

6. 面白い瞬間にカメラやマイクが間に合う、その偶然性を喜びたい

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OIT:ところで、歌が素晴らしかったですよね。
鈴木卓爾:歌、素晴らしいですよね、出来として。
OIT:特にびっくりしたのが最後の合唱。クオリティが非常に高くて、CDにして売ってほしいなって思ったんですけど。
鈴木卓爾:一応配ろうとしてるんですよ、映画館で、配布しようみたいな(笑)。合唱っていいなって思うのは、声が担うものを構築している感じとか、色々なパートを歌ってる声のメロディーラインっていうのが、もし主旋律でまとめてしまえばそういうヒエラルキーになっちゃうんだと思うんですけど、色々なメロディーラインみたいなことを元々はギターの弾き語りで小田(篤)君が作った曲をあえて分解して解体してぐわって合わせ直すと、この映画でやりたかったことそのものになってる。主役が誰っていうことで言うとみんな主役と言っていい位置づけで、ひょっとしたら誰がどうなったかも分からなかった、もっと立ってきた人もいたかもしれない、それはこの登場人物をやった俳優達がこういう人間の集まりだからこうなったんだっていう、そういう映画にしたいっていう、あの合唱曲のあり方みたいなのがすごくマッチするなと。あれはでも最初に作ってきてくれたデモテープなんですよ、今使ってるやつって。
OIT:合唱してるやつですか?
鈴木卓爾:合唱してるやつも元々あれを元にみんなで歌を入れ直そうとしてたんですけど、出来上がってきたものがすごく良かったんで、これでOKにしませんかっていう。
OIT:すごくいいですよね、あれ。
鈴木卓爾:ええ、すごくいいんですよ。やっぱり何度聞いてもいいし、元々主題歌を作ろうって撮影前に言ってて、4パターンぐらい『ジョギング渡り鳥』の歌を弾き語りで小田君が考えてきてくれて、デモを聴かせてくれた、で、今のやつが一番良かった。シナリオはなかったんですけど主題歌はもう決まってたんですね、だから振るべき旗はもうそこにあって、ただ走り続ける、それさえあれば何とかなるんじゃないかみたいな、ものすごい楽観的に撮ったっていう感じですけどね。
OIT:あの歌はでも、必要でしたよね。
鈴木卓爾:そうですね。
OIT:あの歌があったことと、最後にあの合唱の曲があったことがやっぱりものすごく良かったなっていう感じがします。さきほど話に出た“クリナメン”っていうのをプレス資料で読んで、その時に思い出したのが柄谷行人の『遊動論』という本で、柳田国男と“山人”の話なんですが、これは柄谷さんが3.11を契機に書いたものなんですね。ちょうどこの映画も言わば起点としての3.11というのがあると思うので、それと結びつくなと思っていたところに、この“逸脱”という言葉が出てきたので面白いなと思ったんです。柄谷さんの遊動論っていうのは、柳田国男が“山人”について書いているけれども、その“山人”っていうのは柳田国男が妖怪についての考えを学んだ、ハイネの『流刑の神々』っていう書物があって、ハイネは、ヨーロッパではキリスト教が入ってきたために追われた従来の神々が妖怪になったっていう説をとっている、柳田国男は日本の妖怪というのもそれに近くて、実在のものとして妖怪を捉えてるっていうことを書いています。更にハイネはマルクスと知り合いで、ハイネがパリに亡命していた時にマルクスと付き合いがあり、ちょうどこの『流刑の神々』を構想したのがその時期にあたるから、マルクスから影響を受けているはずだと、だから妖怪をかなり政治的なものと結びつけるという見方をしてるんですね、その定住しない人達、山に追われた“山人”を妖怪と重ね合わせ、彼らの生活の仕方を今ある僕らの日常とは違う可能性として浮かび上がらせる”遊動論”ということで書いています。最初の話に戻ると『ジョギング渡り鳥』の当初のアイディアっていうのは内部をぐるぐる回っている人の話、渡り鳥のようには出て戻ってくるようなことが出来ない人達、日本も3.11と先ほどの話で、そういうことがあって本当は出たいかもしれないけれど出て行けない日常に支配されているという状況がある中で、どのようにすればその呪縛から解放されうるのかという主眼が繋がるような感じがしたんです。
鈴木卓爾:僕ら難民になれないんですよ、元々。国境が海だから、そこの能力がヨーロッパのようにはなってない。だから映画で見たような難民化する社会、例えば、『禁じられた遊び』(52)みたいなのはないんですよね、なかったんだっていう、愕然としましたよねっていう。そういうことはすごく思ったのが一つと、今回、フリーペーパー(「LONELY PLANET」)を配っていて、その中で千浦僚さんと市沢(真吾)君がしゃべっている汎神論の話が出てくるんです、要は唯一神の映画ではなくて汎神論的な映画だねっていう。僕、『ゲゲゲの女房』とか、妖怪がしょっちゅう出てくるので八百万の神様で、意識は遍在しているものであるっていうのかな、そこは必ず、そうとしか思えなくて昔から。
OIT:それは『楽隊のうさぎ』の“うさぎ”とも繋がっているし、非常に卓爾さん的な世界観と言っていいですね。
鈴木卓爾:まあ、みんな勝手に生きてるっていう、『私は猫ストーカー』もそうなんですけど猫はやっぱり完全なる他者で、人間だったらまだ誤解を根本にすえてまるでやり取りが出来ているかのように振る舞うことは出来ても、猫って無理でしょっていう、人間と猫の間にあるものとかって無理だっていう、そうするところから逆算して人間もまた同じような、つまり勝手に生きてるみたいな。だけど、だから約束ではない何か奇跡が起きるみたいなことを、そうね、そこにカメラやマイクが間に合うことも奇跡っていうのかもしれないなぁということはやってみたいのと、奇跡っていうか面白い瞬間って僕らが映画としてそれを見ることは不可能だけど、星の数ぐらいあるから、だけどそこにカメラやマイクが立ち会うことによって、なんか上手く言えないですけど、見ることが出来るということなんではないかなぁという、たまたまであるというか、その偶然性をだから喜びたいという感じ。その『遊動論』は、ちょっと読んでみたいですね。


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