OUTSIDE IN TOKYO
SHIMADA RYUICHI INTERVIEW

島田隆一『春を告げる町』インタヴュー

5. 「民衆への信頼ではなく、バラバラになった個を掘り下げていくこと」、
 「事実をかきわけていくと真実が現れるといった実体信仰ではなく、
 事実そのものの中に虚構が見えてくるはず」

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OIT:小林先生も良かったですが、生徒さんも1年生の友衣(佐藤友衣)ちゃんとか、素晴らしいですよね。
島田隆一:彼女にはびっくりしましたね、その後パンフレットにも文章書いて頂いたんですけど、文章も素晴らしくて、現場でもあまり喋らないんですけど何かこう内に秘めた力強さとしなやかさとみたいなものがありました。
OIT:視点が洗練されてるというか。演劇の中で彼女の台詞があるじゃないですか、周りの子がこう言うんだけど彼女はこう言う、そこには彼女の視点が入っているっていうことですよね。
島田隆一:演劇のシナリオを作っていく段階で友衣ちゃんの実体験も入っているみたいです。実際に僕が彼女から聞いたことだと、「やっぱり分かんないよね」みたいな台詞は、実際に高校生活の中で言われた経験があるということでした。また、演出の颯姫ちゃんがインタヴューの中で「いじめとかってもうなんか当たり前じゃないですか、そうじゃないものを作ろうと思って」みたいなことをさらっと言うんですけど、実は颯姫ちゃんも含めてあの演劇部の子達の多くが避難の時にいじめを受けていたりするんですよ。友衣ちゃんの場合は今の高校で疎外感みたいなものを感じていますけど、実は他の部員も東京とかいわき市とか色々なところで疎外感を味わっています。そうしたことも含めて全部話し合っていきながら作っていくっていう形でした。
OIT:その辺のプロセスも素晴らしいと思ったんですけど、全部の撮影したフッテージはどのくらいの長さあったんですか?
島田隆一:多分200時間くらいですね。
OIT:相当撮ったんだろうと思って見ていましたが、そこから編集してこれに落とし込んでいく作業って大変だったんじゃないかなと思ったんですけど。
島田隆一:1年かかっちゃいましたね(笑)。ただ編集の秦(岳志)さんには相当助けて頂きました。
OIT:“春”というタイトルから始まって、“二重性”から“不条理”、そこから“祭り”とか“棄民”の話出てきて、いじめの話もそうですけど、重要な主題が、まるで物語のようにうねりを見せて繋がっていく。ところが、演劇部の子が葛藤して苦しくなっていくあたりからだったと思うんですけど、“二重性”が消えたと思ったんです。別にそういう意識はなかったですか?
島田隆一:そうですね、二重性自体は映そうと思わなくても映ってしまうものだと思います。例えば、酉小屋という行事が映画の終盤にあります。酉小屋というのは、ほかの地域ではどんど焼きや賽の神と言われる正月行事です。収穫の終わった田んぼで、竹などで小屋を作り正月飾りなどを入れ、燃やします。この行事も、放射能の問題が議論されていました。広野町では田畑の野焼きが再開されたのもここ1~2年だと思います。だから私の中ではあの場面を撮っていても二重性みたいなことは否応無く向き合わなくてはならないものでした。ただ、今仰って頂いて嬉しかったのは、後半にいくと観て頂いてる方達の中でそういうものが消えていくっていう作用があったんだなということですね。それをお聞きして、小川プロにいらっしゃった福田克彦さんがある対談で80年代以降のドキュメンタリー映画の課題について言及していたのを思い出しました。「民衆への信頼ではなく、バラバラになった個を掘り下げていくこと」、「事実をかきわけていくと真実が現れるといった実体信仰ではなく、事実そのものの中に虚構が見えてくるはず」ということです。これらの事が、私の映画で達成されたとは思いませんが、こういった問題意識は持っていました。これは2020年代を生きる我々ドキュメンタリー映画の作り手も、引き続き考えていかなくはいけない問題だと思います。
OIT:ドキュメンタリー映画ではあるのですが、多分、観ている人を引き込むフィクションの作用ってありますよね、引き込まれちゃったからその二重性みたいなのが観ている人の意識からなくなってしまったのかもしれませんね、広野町に引き込まれてしまって。
島田隆一:それは嬉しいです。

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