OUTSIDE IN TOKYO
SHIMADA RYUICHI INTERVIEW

島田隆一『春を告げる町』インタヴュー

3. “ボートを漕ぐように人は後ろ向きに未来に入っていく”、
 彼らを見ていると何かそういう感覚を覚えたんです

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OIT:ドキュメンタリーですからシナリオは無いにしても、撮り始める前におおまかなプランのようなものはあったわけですね?
島田隆一:今回の映画に限っては、色々なことを調べました。町の歴史を知らなくてはいけないということもありました。その土地がどういう成り立ちがあって、その背景には何があるのかっていうことをまずは知らないと自分の表現は出来ないだろうと。あとは、仮設にいらっしゃった高齢者の方達が自宅に戻って、そこでお話を聞くと基本的には過去の話になっていく訳です。それが意味することは一体何なのかなと考えていて、当時の自分にパッと浮かんだのがポール・ヴァレリーの詩でした。ボートを漕ぐように人は後ろ向きに未来に入っていくという詩があるんですけど、彼らを見ていると何かそういう感覚を覚えたんです。昔を大切にしていて、今が昔と繋がっている、結局先のことはみんな誰も見えなくて、なんか後ろ向きに未来に入っていくような感覚、この町をそのように見ていけば何か見えるんじゃないかなぁっていうようなことは感じていました。だから大きく構成を考えるとか何かシナリオを書くということよりも、自分の興味に任せて知っていく中で、町の背景に、例えば炭鉱があるとか、火力発電が誘致された時代、原発が誘致された時代があって、開拓者がいる、そうした町の歴史が今の我々と地続きなんだという感覚。映画に出てくる帯刀さんは原発で働いている方ですけど、山形から出稼ぎで来ている現状がある。だけど炭鉱の時代には、鉱山で働く帯刀さんのような方がきっといらっしゃったんだろうと。逆に双葉郡の人達は出稼ぎに冬行かれていて、それがどうにかして出稼ぎに行かなくてすむようにということで原発が誘致されたり、火力発電が誘致されたりしてきた。そうして形成されてきた町なんだっていうこととかを理解していく過程の中でどんどん取材を広げていくっていう感じでした。
OIT:恐竜の地層についても調べていたということですね。
島田隆一:最初の映像教育の時に、実は中学生があのお2人を取材していて、地層があるんだっていうことは聞いていました。突拍子もない話だから映画には入らないだろうなと思いつつも、渡辺昇さんという方にお話をお聞きしていると、ちょっと違う視座を提示して頂いたなっていう感触がありました。結局、不条理とか運みたいなことの中で我々は生きてるんだっていう、自分が全体ではなくて部分であるような感触です。これは僕が取材をしながら考えていた、こういった時代は多分繰り返されてきたし、自分のような人間は過去にもいたという視点と非常に密接に結びついていく話だなと思いました。震災直後だったら、たとえそう思ったとしても、言葉にするには憚られたと思います。しかし今これだけの年月が経って、もうちょっと俯瞰して物事を提示する機会がやっと出てきたのかなっていう感じもあって、最終的にはどうしても映画に入れたいという風に思いました。
OIT:その部分の挿話は凄く面白いと思いました。確かにおっしゃったように震災直後はそういう視点は持てないし、ましてや映画になんか出来ないという感覚も非常によく分かります。それも含めて撮影はどれくらいの期間だったのでしょう?
島田隆一:1年2ヶ月ですね。2017年2月に入って2018年の4月に終わりました。
OIT:アヒルの成長の早さに驚きましたが。
島田隆一:一番最初は田植えの時期なので5月くらい、連休前後ですね。その後、稲刈りが終わると最後食べてしまうのですが、だいたい9月の終わりには稲刈りが終わります。
OIT:食卓に美味しそうに出てきますね。そういうところもちゃんと撮られている。最後に食卓に並ぶまでを計画してたんですか?
島田隆一:お米作りは、田植えがあって稲刈りがあるっていう、そういう循環から季節が見えてきますから、そうした時間的感覚を映画の中に齎してくれるであろうことは分かってはいました。そこにアヒルがいたので、これはじゃあどうなるのかなっていう話の中で、最後は食べますっていうことを聞いた時に、そうするとこの一年のサイクルの中でもう一つ小さいモデルケース的な人生みたいなものがあるんだなっていうことは割と早い段階で理解していました。実は加工業者に取材依頼をしたんですけど、そこはちょっとNGだということで、あのような描き方になりました。
OIT:撮影は1台じゃないですよね、何台かで撮影しましたか?
島田隆一:現場自体は1台で、演劇部の本番の映像が随所に出てくると思うんですけど、あれは4カメで撮ってます。
OIT:画も、広野の町を美しく捉えていますね、多分そこは意識されたのかなと思うんですけど、ご自分で撮ってるわけじゃないですよね?
島田隆一:日常の部分はほとんど自分で撮っています。第一原子力発電所の撮影は、防護服を着なくてはならないですし、色々制約がありますから、自分で演出をして撮影もするのは難しいのでカメラマンに撮ってもらいました。他にも双葉でピアノを弾くシーンや、幾つかのシーンではカメラマンに来てもらいました。ただ、基本的に演劇部であったり、米農家とか渡邉さん一家とか、そういう日常を撮っているのは僕自身です。ずっと考えていたのは距離感みたいなものですかね。自分のカメラが存在していい場所、距離みたいなことをとにかく探るということ。現場でも探りますし、映画全体の中でもそこは心掛けなくてはいけないだろうなという風に感じていました。そして今回の撮影は、距離感はルーズなサイズというか完全な引きでもなく寄りでもない、全体を見渡せるような視座の中で見守っていく視点を大事にしていきました。

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