OUTSIDE IN TOKYO
SASOU TSUTOMU INTERVIEW

溝口健二著作集刊行記念:佐相勉インタヴュー

3. 「輸出映画」を考えていた溝口

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OIT:ほぼ同時期(1929年)に「輸出映画を語る」という新聞に掲載された文章がありますね。この時期にこういう事を考えていたんですね。
佐相勉:溝口さんってそうですよね、1929年あたりの文章を見ると、日本の文化とか映画を西洋に持ってくっていうことを凄く意識している。
OIT:それが、後に評価される。
佐相勉:だいぶ後になってね。
OIT:たまたま評価されたんじゃなくて、ちゃんと考えてたんだよっていう。
佐相勉:淀川長治さんがよく言ってたんですけど、『紙人形春の囁き』を作った同じ年に『狂恋の女師匠』(26)っていう怪談映画を作っていて、(これもフィルム無いんですけど)これが当時ヨーロッパに行ってるんですよ、川喜多長政が持っていって、ドイツとかで上映されたらしいんです。調べてみたけど、詳しいことはよく分からない。あんまり評価はされてなかったんじゃないかって言われてますけど、淀川さんに言わせると、今だったらびっくりしただろうと、当時観て絶賛してるんですね、凄い映画だったと。まだ、ヨーロッパの人も日本の映画や風俗とかをよく分かってない時代だったということもあったんじゃないかと思うんですけど、まあ受け入れられなかった。それが20年後、30年後になって受け入れられたっていう、そういうことなんですね。
OIT:今の“輸出映画”を語ったのが29年、その後、33年に『滝の白糸』があって、そこから少し経って1937年の日中戦争まで、その時点までは二つの流れをコンデンスするという基本的な考え方があったと。
佐相勉:溝口さんって二つの対立するものを東洋と西洋だけじゃなくて、割と一つにごちゃまぜにして、もうちょっと高いものを作りたい、なんかそういう発想が常にあるような感じがしますね。だから1929年でも泉鏡花の『日本橋』(これもフィルム残ってないんですけど)を作っているかと思えば、同じ年に『都会交響楽』っていう傾向映画、社会主義的な現代劇も作ってるんです。そういう意味でも二つは、別々ではないんですね。溝口さんに言わせると両方、同じものの二つの側面というか。だから『日本橋』と『都会交響楽』と一緒に作ってるっていうのは、溝口さんらしいことだと思うんです。28年〜31年くらいまでは溝口さんがある意味で言えば一番社会主義っぽい時期ですね。溝口社会主義者論っていうのがあるくらい、それは無いと思うんですけど、実際相当社会主義的なことを言っていて、それは書いているものを読めばはっきり分かります。

それで36年に『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』を作って、これはある意味戦前のピークみたいな作品になるんですけど、『浪華悲歌』は普通の現代の話で『祇園の姉妹』は芸者さんの話ですけど、いわゆる社会問題を扱っていくわけですけど、先ほど言われた37年の日中戦争あたりで、もうこんなものは作れなくなった。この程度すらね、これは社会主義的なものではないですけど、こういう社会問題を暗いタッチで描いていくっていう、その否定面を刳り出してくるようなものは作れなくなっていく。それから1937年は、二本、作ろうとして作れなかった映画がある。一本は丹羽文雄原作の『薔薇合戦』っていう映画なんですけど、これは撮影まで入ったんだけど、検閲が入って、このままだったら作っても駄目だよ、封切れないよって言われて、結局やめちゃったんですね。それは社会問題っていうよりは男女関係の情痴面、そんなものも作れなくなっちゃった、ちょっと手足捥がれたみたいな感じになってるんです。
OIT:『赤線地帯』(56)とか、その辺ぐらいまで、いわゆる社会派の映画は作ってないってことですか?
佐相勉:そんなことないですね。
西田宣善:『夜の女たち』(48)とか。
佐相勉:1946年に『女性の勝利』っていう、これは田中絹代が弁護士の役やって、最後に大演説がある。あれも最近悪くないなって思うようになった、最初聞いた時は変な演説をマジでやってと思って観たんですけど。完全にアメリカ民主主義の啓蒙映画なんですけど、『夜の女たち』はこの路線のもうちょっと進んだやつですね。そこまで行けば(ある程度自由に)作れるんですけど、それまではやっぱり作れない、男女関係もあんまり作れなくなっちゃったんで、結局しょうがなくなって『残菊物語』(39)みたいな芸道ものに入る。もちろん『残菊物語』は凄くいい作品ですけど。
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