OUTSIDE IN TOKYO
Ildiko Enyedi INTERVIEW

イルディコー・エニェディ『心と体と』インタヴュー

3. 子どもが生まれる瞬間を見届けることと同様に、自分の親が人生を終える、
 その瞬間を見届けることも重要な体験であるはずです

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OIT:演出ということで言うと、今回はアマチュア俳優に加えて、“鹿”もいたわけですが、どのように演出されたのでしょう?動物使いの専門家が関わったのでしょうか?
イルディコー・エニェディ:そうですね、とても有名なアニマル・トレーナーがハンガリーにいて、彼はハリウッドの大規模な商業映画でも仕事をしているような人物で、鹿だけはなくて、熊や狼など、あらゆる種類の動物を手なずけています。彼の名前はhorkaiと言います。動物のためのとても大きな農場や森を持っていて、そこには90頭もの鹿が生息しているのですが、動物が働くのは一年の内の僅か数ヶ月で、あとの期間は動物たちは野生の中で暮らしています。私たちが目をつけた牡鹿ゴーリアは、野生の鹿で人間に全く慣れていませんでした。ですから、トレーナーは、ゴーリアを私たちの映画にキャスティングすることに大いに不安を抱いていましたが、その後、5ヶ月間に亘って彼は毎日ゴーリアと共に過ごしていくことで、ゴーリアは次第に人間に慣れていきました。ついには、キャメラが目の前にあっても動じないようになっていったのです。

OIT:この映画には、鹿の他に、屠殺場で殺される牛が登場しますが、つい先日見た、ウルリヒ・ザイドルの『サファリ』(16)という映画でも動物が出て来きて、こちらの映画では、人間が狩りをして、動物の皮が剥がれるという場面があります。『サファリ』はオーストリアの映画ですが、隣国ハンガリーの映画である本作でも動物の受難の場面が描かれているのは何故だろうと思ったのですが。
イルディコー・エニェディ:ザイドルの『サファリ』はまだ見ていないのですが、その映画についての話は聞いたことがあります。とても、アイロニックで、辛辣な映画だそうですね。同様に、ポーランドのアニエスカ・ホランドの『Spoor』(17)という映画でも、動物の受難が描かれています。『Spoor』は、丁度『心と体と』と同じ年にベルリン国際映画祭で上映された作品です。

OIT:本作の中でそのような場面を描いたのは、そうしたシーンをスクリーンに描き出す必要があると感じていたからなのでしょうか?
イルディコー・エニェディ:私の今までの人生の中で、牛に対する酷い扱いに対して、憤りを覚える瞬間が何度もあって、私はそのことを、私自身に起きた重要なこととして認識しています。彼らは牛をトラックに詰め込んで持ち去り、その後は、この映画で描いた通り、殺してしまう。信じ難い無作法と無神経が、私たちの社会のシステムの中に存在しているのです。例えば、日本では事情が違うかもしれませんが、ヨーロッパでは人が死んでいく姿を直視したくないという文化があります。死にかけた人は医者任せで病院に運び込まれ、チューブで機械に繋がれ、専門家に監視される中、滑らかな流れで手際良く、人生を終えることを余儀なくされます。しかし、私たちは、今まさに何を目撃しているのかということを忘れています。ひとりの人間が自分の人生にさよならを告げようとしている、彼を愛した人たちも彼に最後の別れを告げたいと思っているはずです。しかし、今の社会のシステムには、そのような場所は用意されていません。人間にとって本意ではないはずの無作法と残酷さが、私たちの隅から隅まで組織化された社会の中に存在していることに私は心を痛めています。私は、本来そうした瞬間は、私たちの社会の中のとても重要な記憶の源泉であると思っています。私たちの人生には、重要な瞬間と呼ぶべき、特別な瞬間があります。子どもが生まれる瞬間を見届けることと同様に、自分の親が人生を終える、その瞬間を見届けることも重要な体験であるはずです。人はそうした経験を克服していかなければなりません。むしろ、そのような瞬間を経験することなく、人が充分に人生を生きたと言うことが出来るものでしょうか?それでは人生を生きたとは言えません。そうした思いがあって、あの場面を描くことになったのです。



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