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LECTURE

エミリー・コキー「ジャン・エプシュタインについてのレクチャー」

6. ブルターニュの詩

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彼の仕事の最後の時期は、ブルターニュの詩の時期です。エプシュタインが『Finis Terrae』(29)を1928年に撮影を始めます。その後、第二次大戦の間、39年から47年まで撮影をすることが出来ません。そのために、彼の作品の中には大きな不均衡が生まれる事になります。

『Finis Terrae』(左)、『揺りかご』(右) ©DR

エプシュタインは28年にウェッサン島に赴きます。理由は健康上の問題であり、ブルターニュの新鮮な空気を吸うことが目的でした。そこで、その土地の人達との協力関係が始まります。ネオリアリズムのパイオニアともエプシュタインは言われています。確かに、ロッセリーニの撮り方と共通点を見つけることができるでしょう。景色を使って感情を表すのです。とても面白い事は、トーキーが出現した時、エプシュタインは誰も分からない言葉、つまりブルターニュ語を話す人々を撮影しに行ったことです。トーキーの技術について、エプシュタインは興味を持っていますが、むしろその技術の曲用の方に興味を持つのです。歌を映画にした『揺りかご』(31)、また『Mor vran 』(31)が撮られます。これらの映画は島の住民を使って作られました。ですから、プロの俳優はいません。そしてその結果は、驚くべきものになっています。こうしたアプローチと同時期にエプシュタインが書いた美しい文章を引用しましょう。
「大聖堂は石と空で作られている。美しい映画も写真と“空”で作られる。私が映像の空と呼ぶのは、道徳的な力、すなわちその映像が望まれた理由である。記号の行為をこの力に限り、それが思考を散逸させ、感情をそれ自体へとそらすや否や、記号の行為を止めるべきだ。造形的喜びは手段であり、決して目的にはならない。」

エプシュタインは多くの著作を出しています。映画製作と並行して、常に記事や本を書いていました。またブルターニュを舞台にしたフィクションの小説も書いています。今では手に入らないものになっていますが、シネマテーク・フランセーズから今後5年間のうちに出版をする予定です。出版社アンデパンダンティア(Indépendentia/ ※Capricciの元社員が独立して作った会社)と、エプシュタイン全著作集の出版契約をしたところです。

『Mor Vran』(左)、『海の黄金』(右) ©DR

『Mor Vran』は、エプシュタインが初めてトーキーに挑んだ作品です。けれどもこの作品は無声で、台詞がありません。ただ音楽が入っています。ブルターニュの作品は毎回フィクションであり、伝説または三面記事的な事件を映画化しています。これはトロリー船の悲劇の物語です。『海の黄金』(32)については、ブリュノ・デュモン監督から既にこの場で長い紹介があったと聞いています。『海の黄金』の場合は、アフレコで俳優が台詞を録音しました。その上に、プロデューサーが音楽を無理矢理押し付けてきました。とても雄弁な音楽で、映画の内容とはかなりのずれがあります。エプシュタインはこの音楽を気に入りませんでした。その後、音楽を変えようとしましたが、結局は変更できませんでした。音はあまり良い状態ではありません。批評は厳しいものでした。ただし、この映画はル・ドゥランブル(Le Delambre)という立派な映画館で上映をされました。エプシュタインの作品は、それまでは実験的な作品を上映していたヴィユ・コロンビエ(*Théâtre du Vieux-Colomber1913年開設の劇場。1921年から31年までの間映画館として使われていた。現在はコメディー・フランセーズの一部)やレ・ジュルシュリンヌあるいはスタジオ28といった、いわゆる前衛専門の劇場で上映されるのが常でした。ル・ドゥランブルはモンパルナスにある映画館で、珍しいことに今でも存在しています。『アル・モールの歌』(34)は初めてブルターニュ語で撮影された作品です。エプシュタイン自身の言葉を引用しましょう。

『アル・モールの歌』 ©DR

「なぜいつもアマチュアを、現地の人だけを出演させたのかと聞かれる。そうした問いには、こう答えざるを得ない。なぜならそれはいかなるプロの俳優も同じ真実をこめてこの種の男女を演じることは出来なかっただろうから、と。このような枠組、この真の雰囲気の中では、いかなる‘演技’もこの映画で考えられた精神そのものを壊しただろうから。」
覚えていらっしゃるかどうか分かりませんが、最初にお話ししたブリュノ・デュモンの言葉に通じるものがあります。

『テンペスト』(47)はとても重要な作品です。彼の最後の作品のうちの一本で、遺言的な作品です。エプシュタインは1939年から47年まで戦争のために映画を撮影することが出来ませんでした。戦後に撮られた『テンペスト』は、言わば今までの写実的な着想と、神秘主義的な形式探求を総合する作品になっています。ニノ・コンスタンティーニという『6.5×11』、『三面鏡』、『モープラ』に出演していた俳優が、この作品の製作を行います。様々な資金的な問題があり、この映画は成功を収めることができませんでした。

録音中のエプシュタイン(左)、『テンペスト』(右) ©DR

ご覧頂いているのは撮影中の写真ですが、音の録音がどれほど重要だったかがわかります。エプシュタインは『テンペスト』の音、特に嵐の到来の音を実際に録音しました。その後、音楽家と共に仕事をし、オンド・マルトノという楽器を使って音楽をつけました。この映画、是非ご覧いただきたいと思います。

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