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LECTURE

エミリー・コキー「ジャン・エプシュタインについてのレクチャー」

3. パテ〜アルバトロス時代

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エプシュタインの作品は3つの時期に分けるのが通例になっています。第一の時期は、1923年から26年、パテでデビューし、その後、アルバトロスで活躍した時期です。つまり狂気の年月、20年代、あるいはモジューヒンなど白系ロシア人達との協力、奢侈を学んだ時期です。その前になりますが、お見せしたい珍しい写真があります。撮影現場の写真で、左のルイ・デリュックと共に写っています。21年の『雷』という作品でエプシュタインがデリュックの助監督を努めていた時のものです。残念ながら、この作品は失われてしまいました。エプシュタインの最初の監督作、ルイ・パスツールの生涯を描いた『パストゥール』(22)は大成功を収めました。そこでパテはエプシュタインに10年の契約を提案し、エプシュタインはパテで4本の作品を撮ります。『赤い宿屋』(23)、『誠実な心』(23)などの作品です。

ルイ・デリュックとエプシュタイン(左)、『赤い宿屋』を撮影中のエプシュタイン(右) ©DR

『誠実な心』 ©DR

アルバトロス社のロゴ ©DR
この時期の作品で最も有名なのは『誠実な心』です。ジーナ・マネスが主演しています。これは『誠実な心』の写真ですが、この映画の縁日の祭りの場面が、エプシュタインの映画的前衛の第一歩となります。彼の作品の中には、いつも海や水のシーンがあります。もう一本重要な作品は、フランス映画の川の伝統にのっとったもので、セーヌ川で撮影されました。ジャン・ルノワールの『水の娘』(24)やジャン・ヴィゴの『アタラント号』(34)と同様に、エプシュタインは川の映画『ベル・ニヴェルネーズ号』(24)をパテで撮ったのです。しかし、特に我々の興味を惹くのは、エプシュタインが、アルバトロスの撮影所に入ってからした仕事です。プロデューサーのアレクサンドル・カメンカ、ヨシフ・エモリエフなどの俳優や技術者たち白系ロシア人が、ロシア革命のために1918年にフランスに亡命し、長い旅を経て1919年にモントルイユに住み着き、ハリウッドにも匹敵するスタジオを作ります。それがアルバトロス撮影所です。この撮影所は昼も夜もなく機能しました。セットがそこに作られ、撮影が行われるという形で、全てが撮影所内で行われたのです。このロシア人のスタッフ達はフランスに急速に同化していきました。フランス映画の慣習や規則を身につけ、ストーリーも、しばしばモーパッサンなど、フランスの小説を脚色したものでした。そして最終的には、モンパルナスのインテリ達と恊働し、映画のレファレンス、映画の前衛となります。エプシュタインは24年にアルバトロスに雇用されます。パテとは1年間で契約を解消して、アルバトロスと契約を結び、とても高い給料を貰うようになります。そこでエプシュタインは多くのことを学び、特に自分の映画技術を開発するのです。

先ほど、シネマテーク・フランセーズのエプシュタイン・コレクションの豊かさの一端を担っているのが、彼のキャリアに関わるアーカイブ資料であり、また、フィルム作品も早くから寄贈されていると申し上げました。ラングロワは50年代から、プリントを焼き、普及をはかります。特に1980年代に、シネマテークの修復の専門家であるルネ・リシュティーグ(Renée Lichtig)がフィルムの修復の作業にあたり、再びプリントを普及させることができるようになりました。80年代の修復の対象になった作品はほとんどモノクロであり、現在の修復では必要とされているような情報に配慮はしていませんでした。すなわち現在では、どのネガを使うのか、ネガAがインポート用、ネガBがエクスポート用であるとか、もともとのインサート字幕を再現するなど、当時上映されていた通りに修復しようという努力がなされます。したがって、80年代には主としてモノクロで作品が普及しましたが、仏米文化財団のメセナとなってくれたお蔭で---仏米文化財団がロシア人の映画を修復するのも、奇妙ではありますが、事実です---、私たちはアルバトロスで作られた作品を修復することができました。元のオリジナルの色調を導入し、本来の形に可能な限り近づいたプリントを再現することができました。

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