OUTSIDE IN TOKYO
LECTURE

エミリー・コキー「ジャン・エプシュタインについてのレクチャー」

2. エプシュタインは、見えないもののなかに見えるものを、
 愛されえないもののなかに愛すべきものを発見した

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ジャン・エプシュタインとは誰だったのかを明らかにするには、複数の人の手を借りる必要があります。シネマテーク・フランセーズの創設者アンリ・ラングロワ、ジャン・エプシュタインの妹マリー・エプシュタイン、ドキュメンタリー作家であり、シネマテーク・フランセーズの総裁を2度務めたジャン・ルーシュ、天才的なアンドレ・S・ラバルト、もう一人の天才ブリュノ・デュモン監督です。これらの人々のお蔭で、エプシュタインの個性が現代の好みに戻ってきたのです。

アンリ・ラングロワ ©DR
ラングロワはかなり早い時期からエプシュタインに特別な注意を払いました。シネマテークでの初めての上映会で上映された映画の中に、『アッシャー家の末裔』(28)が入っていました。この最初の上映は、1935年に開催されました。もうひとつ重要な点は、アルバトロスで撮影された作品、『二重の愛』(25)と『蒙古の獅子』(24)が、早くも1935年にプロデューサーのアレクサンドル・カメンカによってシネマテークに寄贈されたことです。これは歴史的な資料となり、シネマテーク・フランセーズのコレクションの基盤となっています。パイオニア的な映像コレクションの一部です。しかも、このプロデューサーがそれらの映画のすべての権利もシネマテークに委譲したことは知っておくべきでしょう。シネマテークが映画の権利まで持つことは非常に例外的なことです。シネマテークとして保存はするけれども、全く権利は持たないのが普通だからです。ジャン・エプシュタインは1936年からシネマテーク・フランセーズの創立メンバーとなりました。第二次世界大戦中、エプシュタインは、その名前の故に、映画を撮る権利がありませんでした。実際はユダヤ人ではなかったのですが、ユダヤ人とみなされていたからです。けれども、ラングロワは、エプシュタインの映画を隠し、破壊を免れさせ、保存することに成功しました。シネマテークのアーカイブに、1943年の感動的な書簡があります。ラングロワがマリーとジャン・エプシュタインに対して、ネガとプリントはシネマテークで安全に保存しているので、安心するようにと書き送ったものです。

マリー・エプシュタイン ©DR

妹のマリー・エプシュタインが1923年にカンヌのクロワゼット通りを歩いているところです。とてもエレガントな様子です。マリー・エプシュタインは、1953年5月の兄の死後、早くも同年11月からシネマテークに就職し、映画の処理を仕事にします。フランスで初めての映画修復家となるのです。ラングロワの重要性に戻りますけれども、エプシュタインが亡くなった時、カンヌ映画祭でオマージュが捧げられました。ジャン・コクトーやアベル・ガンスなど、偉大な人々が臨席しました。その際、ラングロワは、「カイエ・ドゥ・シネマ」に20ページの実に重要な記事を書きます。1953年5月にエプシュタインが亡くなり、その直後に書かれたこの記事がエプシュタインの重要性を認識させることになったからです。シネマテークは1953年からすぐにエプシュタイン作品の普及に着手しました。それ以来その努力がとだえることはありません。私は、もう15年間シネマテークで働いていますが、15年前からエプシュタインの作品を海外にも広めるべく、シネマテークで努力を続けています。ラングロワは、エプシュタインの名を出して、ジャン=リュック・ゴダールを讃えたことがあります。古い作家の名前を出して、新しい作家を讃えることはとてもフランス的です。たとえば今日、エプシュタインの名前を出し、デュモンが賞賛されるのにも少し似ています。ラングロワがゴダールを語っている文章を引用します。ゴダールは「視覚言語としての映像の可能性を探求することを試みた、エプシュタイン以降、唯一の映画作家である」と言っています。20年代の映画作家であるのに、すでに視聴覚言語を追求していたと言っているのです。

ジャン・ルーシュもエプシュタインのことを師と崇めていました。ルーシュは、自分が映画を始める時のことをよく語っていました。蚤の市で16 mmのカメラを買った、そして、「機械の知性」というエプシュタインの著作を買って、映画を撮り始めたと、いつも言っていました。私は90年代にルーシュのシネマテークでの授業を受けましたが、1年に3〜4回は『テンペスト』(47)を上映し、日曜日の朝に講義をしていました。シャイヨー宮のシネマテークでのことです。

ジャン・ルーシュ(左)、アンドレ・S・ラバルト(右) ©DR

アンドレ・S・ラバルトは、ジャニンヌ・バザンとともに「現代の映画作家」というシリーズを作った人です。このシリーズは現代の映画を把握するには最高の手段となっています。そのコンセプトは、一人の映画作家を対象に、現代の映画作家にインタヴューをさせ、仕事をしているところを撮影させるというものでした。アンドレ・S・ラバルトは、二度エプシュタインに関心を寄せています。一回目は、カイエ・ドゥ・シネマについて記事を書き、次いで、とても重要なドキュメンタリーを作っています。これが「現代の映画作家」のシリーズの中の「第一の波(Premiere Vague)」というタイトルのドキュメンタリーです。「第一の波」とは20年代の映画作家たちのことを指しています。ルイ・デリュック、ジェルメーヌ・デュラック、マルセル・レルビエ、そして、ジャン・エプシュタイン、映画美学の基盤を築いた人たちです。後程この映画の中で、ラバルトがジャン・エプシュタインの文章を読んでいる部分をお見せします。しかし、この「現代の映画作家」の中で面白い部分のひとつは、ジャン・エプシュタインあるいは、マルセル・レルビエの映画の上映の部分です。見た直後のホットな状態で観客達に感想を聞いているからです。

映画の最も良い講義(「第一の波」の1コマ)(左)、ブリュノ・デュモン(右) ©DR

右にいる、若い人がラバルトです。後ろ姿のジョルジュ・フランジュに話しかけています。ですからこれは、映画の最も良い講義、と言っても良いでしょう。

そしてもちろん、ブリュノ・デュモンを忘れることはできません。
ブリュノ・デュモンは、ジェイムス・シュナイダーが撮ったドキュメンタリーの中で、重要な発言をしてくれました。30分のインタヴューで、デュモンはエプシュタインの作品を衝撃的に、見事なやり方で分析しています。実際に私たちがデュモンのインタヴューをしようと決めたのは、彼の『カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇』、2013年のプロモーションの時に彼が言ったことを読んだからでした。「そこで私は決してプロの俳優に慣れることが出来なかった。直ぐに演技、癖、偽りが見える。私が自分の登場人物を彫刻するためには、生の素材が必要なのだ。」と述べていたのです。素晴らしいことに、デュモンは偶然、エプシュタインの作品を観たのだそうです。そして、作品を観るごとに毎回自分が提議していた疑問に、エプシュタインが答えを与えてくれたとデュモンは私たちに語ってくれました。

ここでジェイムス・シュナイダーが撮ったドキュメンタリー『Jean Epstein, Young Oceans of Cinema』から、妹のマリーが語った印象的な言葉が紹介される。

「ジャンは見えないもののなかに見えるものを、愛されえないもののなかに愛すべきものを発見しました。」

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