OUTSIDE IN TOKYO
RYUSUKE HAMAGUCHI INTERVIEW

濱口竜介『寝ても覚めても』インタヴュー

7. 「この人は、だってそういう人だから」っていうことで何でも起こせる
 っていうのが少なくとも麦というキャラクターのリアリティであって、
 それが存在することで日常的なリアリティの感覚が歪んでいく

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OIT:『不気味なものの肌に触れる』(13)も川が氾濫するのかというような映画で、今回の作品も川の流れが象徴的に登場するわけですけど、例えば、イタリアの戦後の映画では、ポー川が象徴的にも、現実的にも、実際にネオレアリズモの映画と多く関わっていたりしたわけですね。濱口さんの作品っていうのも、けっこう川であったり、水の流れであったり、それは日本の国土の中の自然であるわけですが、そういうものが実際に捉えられているっていう風に思うんです。例えば、濱口さんがかつて通われていた藝大のある横浜は港町だったりします、今回も神戸が出てきますが、港町の風景が何かを訴えかけるようなことはありますか?
濱口竜介:全くないわけではないと思います。どこか行く度に、また海のあるとこに来ちゃったなっていうことを思ったりはするので。震災で変わったことがあるとすれば、水をちゃんと撮るようになったっていうことなのかもしれないですね。『THE DEPTHS』(11)でも撮ってはいますし、『親密さ』(12)とか『PASSION』(08)でもある程度、映ってたような気がするんですけど。でも、「じゃあここにカメラ据えようか」ってある程度意識的にやるのは震災以降なのかもしれないですね。
OIT:亮平と麦っていう二人の人物について最後に伺いたいのですが、一人はちょっと現実離れしていて、一人は現実的な、常識的なキャラクターです、ここに監督自身の映画に対する何かを投影するようなことっていうのはあったのでしょうか?例えば、商業映画やハリウッドの非常に洗練された夢の工場みたいなそういう世界と、現実と地続きでやっているインデペンデント映画の世界、そういう関係性みたいなものを投影するようなことはありましたか?
濱口竜介:それを具体的に投影していたっていうことは全くないと思うんですけど、麦がめちゃめちゃ重要だなというのは、このインタヴューとかを受けていても思うことで、麦がいないと何も始まらないというか、麦という存在がいることによって映画が飛躍する、面白くなるっていうことは感じます。麦という存在がいなかったら、正直言って、そもそも撮りたいと思わないというか。亮平だけでは十分に映画に撮りたいという題材にはならなくて、麦っていう人がやってくるということが、映画が映画である上で必要なことのような気がします。
OIT:それは麦が訳わかんないっていうところも含めてですかね。
濱口竜介:それは非常にあると思いますね、何か根拠があって物事って起こる訳ではないんだっていうことを体現してくれる人、この人がいると少なくともどんなことでも起こせるっていう感覚がありましたね。観客にとってそこまでのリアリティに達しているかは分からないですけど、やってる側としてはとても楽というか、「この人は、だってそういう人だから」っていうことで何でも起こせるっていうのが少なくとも麦というキャラクターのリアリティであって、それが存在することで日常的なリアリティの感覚が歪んでいく。だから、本当にありがたいキャラクターを原作から与えてもらったなという気はします。

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