『倫敦から来た男』

上原輝樹
tarr_01.jpg

ルーブル美術館で上映された7時間半のモノクロ作品『サタンタンゴ』(94)とニューヨークMOMAにおける特集上映のきっかけとなった『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(00)で見せた独創的な映像表現と本格派の映画作りが高い評価を受けているハンガリーの鬼才、タル・ベーラ監督の新作『倫敦から来た男』(07)は、杉本博司が<Architecture>(1997-2002)シリーズで、旧型大判カメラの焦点距離を無限の倍に設定にして、表面上の装飾を溶解させ建造物の本質を抽出したのと同じように、ジョルジュ・シムノンの色彩と光の装飾に満ちた原作小説から、主人公が直面するドストエフスキー的エッセンスを見事に抽出し、ごく普通の人間が運命のいたずらによって人生が狂わされていく、その様を異次元の想像力で映像化したノワール・サスペンスの野心作だ。

"倫敦から来た男" 達が英語で会話を交わし、その他の登場人物は全員フランス語で語るということ以外は、この物語がいつの時代に、どの国で起きた事なのか、観客には一切知らされることはない。IMDBによると、当初は全編ハンガリー語で公開されたが、いつの間にかフランス語と英語に差し変わったという情報も伝えられている。主人公は、鉄道の制御室で転轍士を勤めるマロワン(ミロスラヴ・クロボット)、彼は長年連れ添った妻(ティルダ・スウィントン)と娘のアンリエット(ボーク・エリカ)と共に、海岸沿いの家で慎ましく暮らしている。本作には、鉄道と船という2つの交通手段が登場するが、車は登場しない。マロワンは、家から制御室のある職場まで徒歩で通う。この大時代的な2つの交通手段が、マロワンを含むフランス語を話す登場人物達を、逆説的にこの港町に閉じ込めているという印象を与える。そして、英語を話す"倫敦から来た男"達は、船でこの町にやってきた外国人であり、その内のひとりが、犯罪者のブラウン(デルジ・ヤーノッシュ)だ。

tarr_03.jpg

この招かざる"倫敦から来た男"ブラウンが起こした事件を契機に、今までこれといった大きな不満もなく暮らしていたマロワン一家に不吉な変化が訪れる。映画の冒頭、マロワンが、この"事件"を制御室のガラス越しに目撃してしまうワンシーン・ワンカットの長回しが素晴らしい。タル・ベーラ作品のトレードマークである、大きくゆっくりと動き回るキャメラが、主人公のマロワンに寄り添い、窓の外の世界(外国からやってきた男が引き起こすクライム・シーン)と窓の内側の世界(制御室内で反復される単調なマロワンの日常)を厳かに画面に収めていく。被写体に対する"時間"の費やし方が、そのまま、タル・ベーラが登場人物を見つめる視線の誠実さと愛情の現れであるような、極めてゆっくりと滑らかに動くキャメラワークが秀逸だ。だが丁寧な筆致で描かれる男の人生は、ふとした事をきっかけに歯車が狂っていく。主人公のマロワンが鉄道の行く先を制御する"転轍士"をしているという点も、いずれ思いもよらぬ転調を経験することになる、人智の及ばぬ偶然によって運命を左右される人間存在の皮肉を暗示するかのようだ。そんなキャラクター造形には、文豪ジョルジュ・シムノンの運命論者的側面が見て取れる。

全ての出来事は、この霧深い港町を舞台に展開するが、タル・ベーラが思い描いた通りの映像を撮影するために、イタリア半島の西に位置するフランス領、コルシカ島に、全ての動きを計算したセットが建築された。この緻密に計算されたセットでの撮影が、キャメラの動きをモーション・トラッキングでコンピュータ・シミュレートしたかのように、手作業の限界を超えたスローな動きで滑らかに建物の内と外をガラス越しにシームレスに移動し、限られたスペースの中で人物の周囲を周遊する、フレッド・ケレメンのキャメラワークを可能にしたに違いない。この独創的なキャメラワークが、本作に流れる時間を唯一無二の異次元なものに変容し、犯罪ストーリーの基本、4つのWと1つのHという物語構造すら忘却の彼方へと追いやり、ヴィーグ・ミハーイの音楽が鳴り響く見慣れぬ風景へと観客を誘う。

tarr_02.jpg

人知れず宇宙の片隅に置き去りにされたかのような孤独感を味わわされた観客は、もうひとりの"倫敦から来た男"である刑事(レーナールト・イシュトヴァーン)が演出する人間実溢れる終盤の展開に、ある種の救いを見い出すだろう。だからといって、全ての人物の運命が修繕されるわけではないのだが。映画の終盤において、突如この港町に現れた悲劇の主人公(スィルテシュ・アーギ)の顔を凝視するショットで終わるエンディングシーンは、ビル・ヴィオラの映像インスタレーション<ドロローサ>(2000)を逆説的に想起させる。ビル・ヴィオラの作品では、人間の顔に現れる感情の変化がバストアップ・ショットで捉えられ、スローモーション再生によって、その感情表現はマキシマイズされるが、本作のエンディングの"顔"には、何の表情も読み取ることが出来ない。スローモーション再生によってマキシマイズされるのではなく、スローモーション撮影によってマキシマイズされるべく、凝視されるその"顔"からは、表情と呼べるような人間的な感情の表出が奪われてしまっている。その感情の不在が、この人物が体験した耐え難い悲しみを決定的に物語り、観るものの感情を大きく揺さぶる。スーザン・ソンタグは、自分とは何の関係もない他人にも関わらず、その人に同情する能力を育むのが"文学"だと言ったが、本作には、正にその"文学"のエッセンスが映像化されている。なんと周到に抽象化された"人間性"の表現だろうか!


『倫敦から来た男』について、皆様のご意見・ご感想をお待ちしております。
なお、ご投稿頂いたものを掲載するか否かの判断については、
OUTSIDE IN TOKYO 編集部の判断に一任頂きますので、ご了承ください。





Comment(0)

『倫敦から来た男』
原題:The Man from London

12月12日(土)より、シアター・イメージフォーラム他、全国順次ロードショー

監督:タル・ベーラ
原作:ジョルジュ・シムノン
共同監督・編集:フラニツキー・アーグネシュ
脚本:クラスナホルカイ・ラースロー、タル・ベーラ
撮影:フレッド・ケレメン
音楽:ヴィーグ・ミハーイ
プロデューサー:テーニ・ガーボル
録音:コヴァーチ・ジョルジ
美術:ライク・ラースロー
出演:ミロスラヴ・クロボット、ティルダ・スウィントン、ボーク・エリカ、デルジ・ヤーノシュ、レーナールト・イシュトヴァーン、スィルテシュ・アーギ

2007年/ハンガリー=ドイツ=フランス/138分/35mm/ヨーロピアンビスタ/ドルビーデジタル
配給:ビターズ・エンド

『倫敦から来た男』
オフィシャルサイト
http://www.bitters.co.jp/london/

『倫敦から来た男』の公開に伴い、シアター・イメージフォーラムにてトークショーが開催される。

"映像美を語る"
12月17日(木)19:00の回 上映前
若木信吾(写真家)×立川直樹(プロデューサー/ディレクター)

"監督タル・ベーラを語る"
12月19日(土)13:30の回 上映後
田中千世子(映画評論家・映画監督)×市山尚三(映画プロデューサー)

"文豪ジョルジュ・シムノンを語る"
12月25日(金)19:00の回 上映前
堀江敏幸(作家)×長島良三(原作翻訳者)


『倫敦から来た男』トークショー

『ヴェルクマイスター・ハーモニー』レビュー
印刷