『ヴェネティア時代の彼女の名前』

上原輝樹
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カルロス・ダレッシオが創ったあの曲が流れて来て、20数年前にニューヨークのMOMAで観た『インディア・ソング』(74)の朧げな記憶が甦って来た。『ヴェネティア時代の彼女の名前』(76)のサウンドトラックは、『インディア・ソング』のそれと同じものを使用している。サウンドトラックは、アンヌ・マリー・ストレッテル(デルフィーヌ・セイリング)に実らぬ恋心を募らせ狂っていく副領事(ミシェル・ロンスダール)の話、落ちる太陽に向かって歩いて行く女乞食の叫びと笑い声、インドシナの街角の雑踏や使用人たちの喋り声、犬の遠吠え、潮騒といった雄弁な音の切れ端が、その当時を追憶するかのようにコラージュされていく。

一方、キャメラは、映像が映写される未来に向けて"記録"ではなく"記憶"していくかのように、デュラスのテクストと同じリズムでゆっくりと移動しながら、廃墟と化したロスチャイルド邸の陽も満足に差し込まない屋内のカビ臭い壁、落ちかけた天井からぶら下がる布、割れた窓ガラスといった崩壊していく家の表面を丹念にフィルムに焼きつけていく。つまり、音は過去を追憶しながら、無人の画は未来に向けて開かれている。過去と未来に引き裂かれたこの奇妙な映画は、そのせいか、作られてから35年以上を経た今なお、メランコリックな"現在"であり続けている。

 "ロスチャイルド邸"は、『インディア・ソング』の撮影に実際に使われたもので、デュラスは現実の"ロスチャイルド邸"という場所を、自分の想像世界の内に取り込んだのだと言える。『インディア・ソング』の撮影から約1年後にロスチャイルド邸を訪れたデュラスは、自ら創り上げた『インディア・ソング』を、今一度"破壊"すべく、『ヴェネティア時代の彼女の名前』を撮り上げた。デュラスは『ヴェネティア時代の彼女の名前』について、このように語っている。「自分自身に抗ってする賭け、自分がすでにしたことを壊すという賭けのなかに、私が前進と呼ぶものがある。破壊とは、進行でもある。私は、破壊がどこまで行くのかを見なければならなかった。」(※)

闇に包まれた『ヴェネティア時代の彼女の名前』と対照的な白い光が横溢する『インディア・ソング』は、あり得ないことではあるが、私の記憶の中ではまるで真っ白い部屋の中で映画を観たような印象が残っている。植民地の白い光に満ちた映画という印象だ。しかし、『ヴェネティア時代の彼女の名前』にはあらゆる色彩が捉えられている。闇に包まれていたロスチャイルド邸には、やがて陽の光が差してくる。差し込む陽の光は、一日の内で変化を遂げる。ブリュノ・ニュイッテンのキャメラは、シャトーから臨む夜明けの空が、紫色から明るいピンク色、オレンジ色へと変わってゆくさまを捉え、経年によって、雨や風や埃が描いた家の外壁に描いた模様が、あたかも、シャトーから見える海沿いの林を模した風景画のように見えるさまを捉えて行くだろう。この描写は、今日観ることのできたもう1本の映画『コルドリエ博士の遺言』(59)について、ジャン・ルノワール自らが語ったことが、まるでこの場面のことを描写しているように思えるので、ここに引用しておく。「ひび割れた壁は分析のしようがない。あらゆる色調が重なり合っている。それは偉大な抽象画、人間の能力を超えた絵画である。秋の雨や二月の霜、七月の日照りや春先の霧がその作者だ。」

やがて、人がひとりもいなかったスクリーンに、女性たちの姿が映し出される。そして、一日の終わりに陽が沈んでゆく。キャメラは、太陽が沈んでゆく、そのさまを実際の尺でたっぷり捉えながら、陽の沈む方角に歩んでゆく女乞食の話をすることに同じ長さの時間を費やすのだ。自らの創造物を破壊することによって前進することを試みた徹底的にラディカルな映画の、"詩"そのものが現前する瞬間がここにある。その富が孕むデカダンスと貧困に宿る官能の両極を見つめる詩学は、デュラスがかつて暮らした植民地で、現地の支配階級の白人たちを観察しながら過ごした貧しい幼少時代に育まれたものだったに違いない。

レビュアーの評価:star.gifstar.gifstar.gifstar.gif


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『ヴェネティア時代の彼女の名前』
原題:Son nom de Venise dans Calcutta désert
 
監督:マルグリット・デュラス
撮影:ブリュノ・ニュイッテン
編集:ジュヌヴィエーヴ・デュフール
出演:デルフィーヌ・セイリング、ニコール・イス、ミシェル・ロンスダール

1976年/120分/16mm/カラー


































































(※)
「デュラス、映画を語る」
マルグリット・デュラス
ドミニク・ノゲーズ
岡村民夫訳
(みずず書房)
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