『引き裂かれた女』

上原輝樹
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惜しくも去年の秋にこの世を去ったクロード・シャブロル監督53作目の長編映画『引き裂かれた女』(07)は、好色な事でも知られていたというNYの著名な建築家スタンフォード・ホワイトが、愛人である女優エヴリン・ネズビットの夫に殺されるという、20世紀初頭に起きた実際の情痴事件に想を得た作品である。(本作の2年後にパリで公開され、日本では去年のTIFFで上映された『刑事ベラミー』(09)がシャブロル監督の遺作となった。)

建築家スタンフォード・ホワイトは、著名な作家サン・ドニに置き換えられ、奔放な実生活でも知られる獣の目をした俳優フランソワ・ベルレアンが演じている。社会的な影響力を持った年上男性に惹かれて、危険な恋愛感情に自ら陥りながら、言い寄ってくるもう一人の若者、パラノイアな人格破綻者にしてブルジョア家庭の御曹司ポール・ゴダンス(ブノワ・マジメル)も袖にし切れず、二人の男性の間で<引き裂かれ>ていくお天気キャスター、ガブリエル・ドネージュを、清廉と鈍感の間を行き来する可憐さでリュディヴィーヌ・サニエが演じている。

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『スイミング・プール』でのサニエ嬢の見事な脱ぎっぷりを知る私たちであるから、今回も派手にやってくれているだろうか、などと期待を膨らませたわけでは断じてないのだが、『石の微笑』のローラ・スメット並みに蠱惑的で、その相手役が同じ『石の微笑』、そして『ピアニスト』『陰獣』『悪の華』と変態役を呼び寄せてきたブノワ・マジメルなのだから、あらぬ想像を掻き立てられなかったと言えば嘘になる。その点で言えば本作は、観客が目にし得る範囲では、ほどほどの慎ましさで作られたサスペンス映画であると言う他ない。

しかし、フレームの外で行われたはずの行為まで鑑みれば、本作で語られる物語の内実は"エロい"を通り越して、"腐っている"というべきかもしれない。『引き裂かれた女』は、21世紀など始まってすらいないとでも言うかのように、現実世界のアクチュアリティと無縁な人々の、ハーレクインロマンス的な付き合いきれない情事を、極上の映像美と共に堂々と腐臭は放ちながら、私たちの鼻先に差し出してくる。

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この作品を評する時にヌーヴェル・ヴァーグという言葉を口にするのはほとんど詐欺ではないかと思える程、かつてのヌーヴェル・ヴァーグとは遠く引き裂かれた場所に、この作品はあるように思える。実際に幾つかの法律違反を冒していると思しき、かつての盟友ジャン=リュック・ゴダールは公然と超国家、超権力を標榜し、それを作品で宣言し、自ら違法ダウンロードで罰金を喰らった者を弁護する事すら辞さないが、シャブロルの場合は自らがエスタブリッシュメントと化し、そのブルジョワ的腐敗を内面化し、公然と法律を犯すことはないが、内なる犯罪性はジャン=リュックの比ではなく、その病理を54年間に渡る自らのキャリアの中で熟成させていったように見える。そうした病理は、観客とも共有され、シャブロル作品における観客は監督との共犯関係にある。その点でも、伝染的ではあるものの観客と共犯関係にあるとは言い兼ねるジャン=リュックの場合とは対照的だ。

あるいは、若かりし日に、「映画とは人間の美しい感情を描くもの」と語った理想主義者のゴダールや「映画は美しい一瞬、一瞬を繋げたもの」と語った現実的な夢想家トリュフォーと、4、5歳の頃に見たという映画『風雲児アドヴァース』(マーヴィン・ルロイ)で、ヒロインを巡って好色な老漢と好青年が対決し、隙をついた卑劣な方法で老人が青年を刺し殺すというシーンに衝撃を受け、善と悪の観念が一変した(※1)というトラウマ的映画体験から出発し、人間の心の闇を凝視し続けた観察者シャブロルとは、そもそも進むべき方向性が違ったのかもしれない。

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しかし、21世紀に入り10年が経過した今、トリュフォー/ドルリュー黄金コンビによる『アメリカの夜』のテーマ曲が、21世紀にトリュフォーの反野性的精神を引き継ぐウェス・アンダーソンのコマ撮りアニメの中でファンタスティックに蘇ったのは僥倖以外の何物でもなかったが、それとほぼ時を同じくして、ゴダールは<ソシアリズム=社会主義>を宣言し、その数年前にシャブロルは<引き裂かれた>と言った。21世紀まで生き延びた二人の作品は、どちらも観客を唖然とさせながらも、今正に世界で起きている事態を明確に言い当てており、優れた映画には時代を超えてゆく普遍性とともに、今の社会を写す同時代性も宿らざるを得ないということを改めて想起させる。映画とは、どこまでも、作家の意図した以上のものを映し出してしまうものなのか。

西洋の没落を語りながらも<社会主義>に一縷の希望を託し、世界を"映画"で歓待するゴダールの<フィルム・ソシアリスム>は、ソーシャル・ネーットワーキングの時代の理念として<社会主義>つまりは、<個人>よりも<複数>であることを称揚する理想主義者ゴダールの健在ぶりを強く印象づける。一方、シャブロルの『引き裂かれた女』で描かれる世界は、どこまでも<引き裂かれ>るばかりで、そこに希望はない。むしろ、その希望のなさこそが現実そのものである、愚かな過ちばかりを繰り返してきた人類に相応しい世界の有り様であるという"文明批判"が本作の根底にあるに違いなく、とりわけ3.11以降にこの作品の持つ圧倒的な同時代性が"文明批判"としてあからさまに露呈したことを否定できない。

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3.11の震災から1ヶ月を過ぎた今尚、終わりが見えない現実となってしまったかに見える地震と放射能汚染、これらの自然災害と人災が図らずも暴いてしまった、私達が住まう国、日本という国の<引き裂かれた>現実を私たちは直視せざるを得ない状況に置かれている。つまり、被災地とそれ以外の土地、被災した人々と被災から免れた人々、死者と生者、原発ルネッサンスと脱原発、差別と被差別、高橋源一郎が"地震"というよりは"時震"、つまり"時"がズレてしまったのだと表現した(※2)3.11を境に決定的に何かが変わってしまった<引き裂かれた>私たちの日常生活の狭間に見えてきた"欺瞞"に、今なお気付かないのだとしたら、それはあまりにも『引き裂かれた女』、ガブリエルが体現した"清廉と鈍感"そのものであると言えないだろうか。

レア・セドゥが演じた、アモス・ギタイ『幻の薔薇』の消費文化の象徴であるかのようなヒロイン、マルジョリーヌがパリの街を闊歩していく秀逸なエンディングシーンをどこか想起させる本作のラストシーン、色々な事が起きたけれども、私は私、このままの自分で強かに生きていくわ、とでも言いたげな開き直りを見せる彼女を観て、どうにもすっきりしない感じがつきまとうのは、<引き裂かれた>女、ガブリエルが体現した"清廉と鈍感"が、日本における<引き裂かれた>日常を即座に連想させ、起きてしまった決定的な変化を未だ受け入れることが出来ないでいることを、"清廉と鈍感"であり続けることで現実を直視することを忌諱する、私たち自身の姿を見る思いがするからではないか。今や本作は、私たちの現実と無縁とは言えないアクチュアリティを獲得してしまった作品として、忘れることが出来ない作品になるのかもしれない。もちろん、いくら何でも、クロード・シャブロルが日本におけるこのような事態を予見したなどという気はさらさらないが、"自由の精神"を標榜しながらも、むしろ、それ故にと言うべきかもしれないが、植民地主義や原子力ルネッサンス、"死の商人"の横顔を持ち続けるシャブロル監督の祖国フランスの<引き裂かれた>アイデンティティと、その頽廃が影を落とす本作の"文明批判"の射程は、3.11によって、遅ればせながら誰の目にも明るみになった世界で唯一の被爆国でありながらも、原子力の平和利用に邁進して来てしまった近代国家日本の禍々しい本性とも左程遠い所にあるとは思われない。


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『引き裂かれた女』
原題:LA FILLE COUPEE EN DEUX

4月9日(土)より、渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開後、全国順次公開
 
監督:クロード・シャブロル
出演:リュディヴィーヌ・サニエ、ブノワ・マジメル、フランソワ・ベルレアン

© 2006 Aliceleo Cinema-Rhones Alpes Cinema-France2 Cinema- Integral Film-Aliceleo

2007年/フランス/115分
配給:紀伊國屋書店、マーメイドフィルム

『引き裂かれた女』
オフィシャルサイト
http://www.eiganokuni.com/hiki/


クロード・シャブロル監督特集


参考文献:

(※1)
『不完全さの醍醐味
クロード・シャブロルとの対話』
(清流出版)
フランソワ・ゲリフ(著)
大久保清郎(翻訳)

(※2)
群像2011年5月号
日本文学盛衰史 戦後文学篇〔17〕
高橋源一郎
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