OUTSIDE IN TOKYO
TALK SHOW

ボックスオフィスの彼方に ~興行の縁で映画を考える~
バーバラ・ローデン『Wanda』上映後のトークショー

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フランス映画はない!?

松井:東京日仏学院でプログラム担当になった時も「飛び込んだ」っていう感じだった。
坂本:そうですね、まあやっぱり泣きながら、怖いフランス人のおばちゃんに怒鳴られながら、最初は。フランス語も留学しないでどうやって学んだんですかってよく聞かれるんですけど、まあそうやって怖い思いをして、いつ殴られるか分んない、いつ追い出されるか分んない状況に身を置いて、まあとりあえずやってきたという感じですね。
松井:最初にやった企画は覚えてます?
坂本:いや、彼女がなんとなく始めていたんで、最初に自分でやったっていうのは覚えてないですけど、やはり今も続けているカイエ・デュ・シネマ週間というのが最初にちゃんと関わったプログラムとしては記憶にありますね。あとは吉田喜重さんの特集を95年か96年に開催しました。それはラ・ロシェル映画祭で特集上映があったので、日本でもやるべきだろう、と監督のご協力のもと上映することができました。
松井:でも吉田喜重監督だったりカイエ・デュ・シネマ週間だったり、つまり基本的にはフランス映画や「フランスと関わりのある映画」を上映するという縛りはどうしてもあるんですよね。
坂本:そうですね、でも自分自身は別にフランス映画が一番好きだとかそういう訳ではないんです。フランス映画の面白さっていうのは、まさにフランス映画じゃない部分、非フランス映画的なものをいかに映画に取り入れて、自分達で撮ろうかっていう部分でもあると思うんです。例えば、アルノー・デプレシャンと一緒に作った企画なんですけれども、これもほとんどがフランス映画じゃなかったですね。アルノーは「フランス映画っていうものは無い」という名言から、あるテキストを書いていて、じゃあそこから何かプログラム出来ないかって相談して、ちょっとそれは難しいって話になった。じゃあ、自分自身というのは、どっかで自分の小説、自分の人生を物語として語らなければいけないという何かを常に持っていると、自分の人生っていうのはこうこうこうだと、映画でそういう風に何とか自分の人生を描こうと、もがき苦しんでいる人達とか、そういう人達の映画を集めてみようという話になって、出来たのが「人生は小説なり」いうデプレシャン白紙委任状の企画なんですけれど。この中にはアメリカ映画とか、それこそエドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の思い出』なども入ってます。フランス人の監督とか批評家とかと、プログラムを一緒に立てると、やっぱりどうしてもアメリカ映画とかアジア映画とか入ってきて、ああ良かったなっていうか(笑)。うちでもアメリカ映画できて良かったなっていう。
松井:今ちょうどアルノー・デプレシャンの名前が出ましたが、坂本さんが日仏学院で仕事を開始した頃にちょうど彼が長編を撮り始め、日本でもその数年後に紹介され、また同世代の同じ映画学校卒の一群の監督たちが新たな世代としてフランス映画に登場してきた。坂本さんの活動や「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」によって、その監督たちを僕たちは知ることができたんです。だからそこでもやはり坂本さんは、新しい何かと並走していたわけですよね。
坂本:そうですね、アルノー・デプレシャンとは「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」で、来日する度にお会いしてインタヴューしたり、日仏のプログラムも一緒に作ったり、時々、映画の話をメールでもやり取りしたりしながら、映画で繋がっている同士だとお互い思っています。日仏学院というぐらいですので、日本にあるわけだから日本で映画を撮ってる人との交流もやはりどうしてもしていきたいって思っているので、それがやっぱりお互いの刺激になる。さっきその「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」で思い出に残る体験とか記事っていう事で言えば、パリのフェスティヴァル・ドトンヌという秋のフェスティバルで黒沢清さんとか青山真治さんとか諏訪敦彦さんとかの作品を紹介するっていう場を設けてもらったことです。
松井:それはいつ?
坂本:97年ですね。みんなで行って作品を紹介して。黒沢さんの作品なんかはその後もレトロスペクティブが組まれていって、一気に日本映画がある種ブームになって紹介された時期があって、そういう時にやはりデプレシャンだったりクレール・ドゥニだったりいろんな人に声をかけて観に来てもらったりして、彼らは彼らで刺激を受け、そうした交流の場を実現できたのは凄く嬉しい思い出ですね。

ドミニク・パイーニからの影響

松井:同時代の日本とフランスの監督の交流っていうのはもちろんありつつ、他にプログラミングにおけるコンセプトというか、これが大事だなっていうものは何か生まれてきましたか?
坂本:影響を受けた人の一人としてドミニク・パイーニという元シネマテーク・フランセーズの館長でその後ポンピドゥー・センターの文化ディレクターにもなった方がいます。プログラムをすることがいかに思考であり、批評でもあるか、どう見せるかっていう行為を成すことが批評そのものであるということを彼は言っていて、ドミニクの元を辿ればアンリ・ラングロワという人がいるわけで、やはりいつも彼らの言葉に立ち返って耳を傾けなければいけない、単にカタログがあってリストがあって見せてればいいということではない、ということを常に意識しなければいけないと思っています。日本はどんどん箱は出来ていてもそうした「プログラム」に対する意識がまだフランスに比べたら低いと思うんですよね。自分も含めて本当にまだどんどん学んでいかなきゃいけないことが多いと思うんですけど、映画をどう組み合わせて見せるのか、どういうテーマを持ってくるのかっていうのは、本当に観てないと出来ないことですし。
松井:まずは映画を観ている数が絶対に重要になってくる。
坂本:そう、だから一本、この特集の中で観たいって観に行くっていうのは、だいたいみんなあると思うんですけど、私ももちろん基本的にはそうなんですけど、でもこの特集を通してこういうことが見えてくるんだなとか、これとこれを今日この一日のプログラムの中で観ることで、二つ観たことで何かが見えてくるって絶対あると思うんですよね。例えばさっきの監督週間も、自分達がやっているので全部一緒に観客の皆さんと観るようにしているんですけど、観ますよね、そうするとやっぱり監督週間が目指している何かが見えてきたり、70年代のこういう映画の持っている共通の何かが見えたりすることがあるんです。あと面白いのは、監督で特集を組むことは多いんですけど、俳優の特集っていうのが実は凄く面白くて、今までやった中ではカトリーヌ・ドヌーヴ、松井さんもご存知のジャン=マルク・ラランと一緒にやった時、俳優が作る映画史っていうのもあると、それは元々はリュック・ムレっていう人が「俳優主義」という本の中で言い出したことなんですが、カトリーヌ・ドヌーヴが出てきたことで生まれてきた映画というのがあるとか、ジャン=ピエール・レオっていう俳優がいるから出てきた映画があるっていう、例えば最近で言えば、マチュー・アマルリックっていう俳優がいることで生まれている映画群があるとか、そういう見方もまた一つあると思うんです。だから映画史とか映画というものの切り口を、やっぱりどんどん自分達でずらしたり、角度を変えたりして見ることっていうのは、とても大事なことだと思います。
松井:たとえばジャン・ルノワールのレトロスペクティヴをやるのは素晴らしいことですが、一方でいまルノワールのほぼ全作がAmazonで注文できてしまう。でもレトロスペクティヴではなく、映画史を書き換える見方の提示、たとえばドミニク・パイーニがよく言う「想像のシネマテーク」というコンセプトなんて、とても刺激的だなと思います。
坂本:そうですね、さっきお話しした「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」で92年にパリで梅本さんがドミニク・パイーニに取材に行った時のインタヴューを読み返してみて、映画を記念碑にする事、遺跡にする事は避けなければならないと言っていて、間違ってそういう風に映画を扱ってしまっているというのはあるんじゃないかなと思うんですよね。映画は上映して観てもらってなんぼなわけで、記念碑になったら映画はもう終りなわけだから、やっぱり保管することと観せることを同時に考えていかなきゃいけないと思います。あとは今回の企画の「ボックスオフィス」っていう題名で、先ほど映画館がどんどん無くなっていくというお話しがあったんですけど、やはりその映画館という商業的な場所と、例えば日仏学院のような場所というのは分けてあっていいと思うんですよね。どっちが正しいとかじゃもちろんないわけで。映画というものは、商業と産業と芸術のいつも狭間にあるものとして最初からあるわけだから、芸術である部分を守る力もないと映画というものは多分商業の方にだけ傾いていったら無くなるしかないと思うんですよ。だからそういう意味でシネマテークだったりシネクラブだったりという場所がどういう風に守られていかなきゃいけないかということも考えないといけないと思うんですよね。

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