OUTSIDE IN TOKYO
TALK SHOW

モーリス・ピアラ『ヴァン・ゴッホ』公開記念
アントワーヌ・ドゥ・ベック×廣瀬純トークショー

4. ピアラは、詩人とか画家のインスピレーションというものを全く信じていない

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観客A:最近、ちょうど今公開中の『ルノワール 陽だまりの裸婦』(12)を観て、それもオーギュスト・ルノワールの晩年が出てきて、ジャン・ルノワールも出てくる伝記映画なんですけれども、今日の映画と比べてみるとモデルになった(愛称)デデですね、カトリーヌ・エスランがやっぱり印象に残るんです。だから成功した人よりもむしろ等身大で消えていく、そこにその人の生き方、さっきの話だと崩壊過程っていうのかな、いかに成功出来なかったかっていうのが対比されて、ルノワールは大好きなんですけれども、印象としてはその女性の方が非常によく出てたなという印象を受けました。あと、だいぶ前に観たフランス映画で『美しき諍い女』(91)というバルザック原作「知られざる傑作」の映画が、今日の映画とかなり共通するようなところが感じられて、登場人物が悪意のようなものを持っている、ゴッホを善人として描くんじゃなくて、ちょっと嫌な男だけど愛すべき男として描かれるっていうところに、『美しき諍い女』でもモデルになった画家は決して紳士な男性じゃなくて、二人の間を割くようなところに対面してくるっていうところが描かれていたので、『ヴァン・ゴッホ』とかなり共通性があるんじゃないかなっていう風に観ました。あの映画の場合、デッサンのシーンが非常に長くて、教育映画的なシーンがかなりあって非常に面白かったんですけれども、そういう入れ込み方っていうのもその映画を観た時に感じました。今回はロートレックの有名な女性が出てくるんですけれども、ああいう人が日常的にスクリーンに出てくるので観ていて非常に面白かったですね。
アントワーヌ・ドゥ・ベック:そうですね、確かにオーギュスト・ルノワールの息子を通して描いた作品で監督の目のつけどころというのが、ルノワールの南仏の家に屯していたというか、女性のコミュニティというものに彼の関心があったというところでは、このピアラの『ヴァン・ゴッホ』の作品ととても近いところがあるんじゃないかなという風に思います。そして『ルノワール 陽だまりの裸婦』の中では女性が絵画を準備したり、年老いたルノワールの食事の用意をしたり、非常に具体的なところで女性のコミュニティというところを描いているところに共通性があって、絵画を見上げるような作品じゃなくて、絵画というのは自分達と同じ目線の地に足のついたものだというようなところが『ヴァン・ゴッホ』に関しても、『ルノワール 陽だまりの裸婦』に関してもあるんじゃないかなと思います。そして『美しき諍い女』の方ですけれども、ピアラ自身は、詩人とか画家のインスピレーションというものを全く信じていないんですね、ですから若い女性にインスパイアされてというような、そういう考え方は全く好きではない、そういうところはさっと流してしまうというところがあると思います。そして『美しき諍い女』に関しては、彼は嫌いだと言っていますね。ロマンチックなインスピレーションというものを、彼自身は全く良しと思っていなくて、正に彼自身は逆のことをやろうと思っていたんだと思います。私自身は『美しき諍い女』という映画を非常にリスペクトしていますし、美しい作品だと思いますけど、あそこで描かれているのはやはり偉大なアーティストのインスピレーションの物語で、そこに描かれてるアーティストとモデルのデュオという描かれ方はピアラが望んだものではありません。ヴァン・ゴッホはもちろん書生を描いたりはしますけれども、それはインスピレーションをもたらしてくれるモデルとして描いているわけではないわけです。要するにピアラというのは、詩人とか画家のインスピレーションというものを全く信じていなかったというところがあります。それよりもヴァン・ゴッホに自然の中を散歩させて歩く風景、それこそが彼が信じていた画家の姿だと思います。ヴァン・ゴッホが老体に鞭打って歩いて行く姿、そこから絵画が出来るんだ、決して上から降ってくるようなインスピレーションで絵画が描かれているんじゃない、そういうところにピアラの絵画観っていうのが現れているんじゃないかなという風に思います。
廣瀬:今回リヴァイヴァル公開される4本のうちに『悪魔の陽の下に』という作品が含まれていますが、そこではまさに“インスピレーション”と呼んでもかまわないようなものが問題にされていると言えるかもしれません。ピアラ映画において何らかの“インスピレーション”(外部からの力の働き)が問題になっていると言えるとすれば、それはまさに「悪魔の陽」あるいはそれに準じるような類いの同定不能な非人称的な力のことであり、登場人物がその「下に」否応無しに身をおくというかたちにおいてのことでしょう。この意味で、もし仮に『ヴァン・ゴッホ』について「インスピレーション」というものを語り得るとすれば、それは、アントワーヌさんの言う通り、主人公が絵画のモデルとした人々や風景のことではなく、むしろ、彼の身体の内奥に予めセットされた死のことだと理解すべきであるように思えます。ヴァン・ゴッホの絶えざる怒りの源泉としての死です。


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