『ジャン=リュック・ゴダールとの会話の断片』上映後のアラン・フレシェールとドミニク・パイーニよる対談:イベントレポート

3月6日(土)@東京日仏学院上原輝樹
2010.3.12 update
『ジャン=リュック・ゴダールとの会話の断片』
三寒四温の不安定な天候が続くここ数日、この日は紛れもない三の方の天候で雨が降りしきる中、お堀沿いの道を暫く歩き、『ジャン=リュック・ゴダールとの会話の断片』と上映後の対談を目撃するために東京日仏学院へ足を運んだ。

この天候不順にも関わらず、『ジャン=リュック・ゴダールとの会話の断片』を英語字幕のまま見る為に集まった満席の観客を前に、監督のアラン・フレシェールは、この作品はあくまで"資料"なようなもので私の"映画作品"と呼べるようなものではありません、との不穏な断りを上映前の挨拶の言葉として述べ、作品の上映は始まった。

果たして、『ジャン=リュック・ゴダールとの会話の断片』は、フレシェールが上映前に述べた口上の通りのものであったが、いずれ日本語字幕がついてDVDとして発売されるというから、ここでは多くを語るまい。もちろんこの作品は、ペドロ・コスタがストローブ=ユイレを撮影した『あなたの微笑みはどこに隠れたの?』のような強度を持つ映画作品とはかけ離れたところに位置する作品ではあるが、それでも、多くの観客にとってはゴダールの驚くべき瞬間が捉えられている第一級の資料映像であることは間違いない。ダニエル・ユイレとゴダールがアメリカ映画批判を繰り広げる最中"スコセッシ"という名前が二人とも出てこないという惚け老人の掛け合い漫才めいたやり取りも捉えられているが、自作の『アワー・ミュージック』について対談者と白熱の議論交わしたり、フレノワの学生たちを前に映画用語を巡って、フランス語、英語、ドイツ語、イタリア語でのニュアンスの違いを解説した後、誰をも魅了する得意気な笑顔を作って見せてみたり、スイスのロールにある自宅スタジオやライブラリーにキャメラが入ったりと、期待以上のゴダールに関するドキュメンタリーになっていることは間違いない。

アラン・フレシェールとドミニク・パイーニよる対談
上映後、アラン・フレシェールとドミニク・パイーニによる対談が行われた。アラン・フレシェールは特にゴダールとは深い知り合いというわけでもなく、少し複雑な経緯があって、"ゴダールのドキュメンタリーを撮る"仕事をすることになったという程度の対象との距離感を持っており、一方、元シネマテーク・フランセーズ館長のドミニク・パイーニは、ゴダールとは、30年来の友人であい、互いに尊敬と親愛の念を持つ間柄であるという。

まず、アラン・フレシェールが、本作製作の背景を語るのだが、その口調は対象への皮肉に満ちているものだったと言って良いだろう。ほぼ全て、自らの無責任から多くの現代アートプロジェクトを棒に振ってきたゴダールから、紆余曲折を経て、色々な仕事の穴を埋めるかのように、それならば自分のドキュメンタリーを撮ってほしいという仕事のオファーがフレシェールにやってきた。偉大なアーティストとしてゴダールを尊敬するフレシェールだが、その男の数々の伝説的な武勇伝を知るが故に、その場で快諾するには至らず、少し考えざるを得なかったという。ここで、フレシェールがこの仕事を断っていたら、この貴重なドキュメンタリーはついに作られなかったのかもしれないと思うと、我々は彼の英断に感謝をしなければならない。いざ、プロジェクトが進み、いよいよスイスはロールのゴダール宅での撮影の日、3日間の撮影予定に備えて、ジャン=リュックを可能な限りの美しい照明で映像に残そうと準備した機材について、ジャン=リュックから「全ていらない」と拒否され、そうした機材一式を諦め、更に「撮影は今日しかできない、明日は忙しいから」との一声で、撮影日は一気に3/1に短縮された。こうしたこと以外は、ジャン=リュックは"ルールの規則"をちゃんと守ってくれた、と語るフレシェールは、もちろん、その"ルールの規則"を知っているのはジャン=リュックだけなのだがと付け加え、確かに彼は、私たちをロールの自宅に招いてくれたが、これは随分些細な事だが、水の1杯も出してくれず、コーヒーなら近くのカフェがある、ただし、そこは夜の8時には閉ってしまうが、と教えてくれたと皮肉混じりに続けた。ジャン=リュックへの批判は、更に続く。フレノワでの学生とのワークショップに現れたジャン=リュックは、学生の現代アートを全く理解していない様子だった、学生のアートを理解出来ないジャン=リュックは、学生たちに対して、なぜ映画を迂回してこうしたアート作品を作るのか?現実を恐れているから映画を作らないのだと学生たちに諭したという。フレシェールはこれを、ゴダールが映画こそが現実であると理解していることを示す興味深いエピソードだと語る。
これを受けて、まず冒頭に、フレシェールが語った事は全て真実だと前置きし、蓮實重彦著「ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察」の中で、コミッショナーのドミニック・Pとして登場する男が、ポンピドゥー・センターやNYのグッゲンハイム、MOMAとゴダールのプロジェクトについて語り始めた。

「ゴダールは、この30年間、あらゆるカテゴリーのアーティストに影響を与えてきた。それを高く評価しているポンピドゥー・センターが、ゴダールに現代アートのプロジェクトをオファーしたが、ゴダールはこれに即座にNOと言った。次に、NYのグッゲンハイムがゴダールにオファーした。ゴダールは、『軽蔑』のクレジットを壁際の床の小さなスペースに上映することを提案したが、グッゲンハイムはこれを拒否した。ゴダールのアイディアは、戦後イタリアの芸術運動<アルト・ポーヴェラ(貧しい芸術)>と関連づけたものだった。南アフリカ出身のターナー賞作家スティーヴ・マックィーン(2008年『ハンガー』で映画監督デヴューを遂げる)には、歩く人の足元だけを撮影し、その映像をクローズアップし壁面の下の方に上映するという作品がある。私が行った、ポンピドゥーでの「ヒッチコックとアート」(2001年)や「ジャン・コクトー、20世紀の潮流の中で」(2004年)を見に来たゴダールは、作品の解説と映画の抜粋を結びつけることに興味を持ったようだった。80年代の始めには、既に映画作家が現代アートの世界に介入する動きは始まっていた。アトム・エゴヤン、ラウル・ルイス、アニエス・ヴァルダ、デヴィッド・リンチ、ピーター・グリーナウエイ、シャンタル・アケルマンといった映画作家たちが、現代アートの世界に介入した。ゴダールは、MOMAの依頼で絵画を撮影し『オールド・プレイス』(98)の中で使った。」

・・・と、ここまで書いた所で『オールド・プレイス』が未見DVDストック のにあることを思い出し、何気なくそれを見始めてしまった。20世紀末に作られたこの作品の中で、20世紀という戦争の世紀がいよいよ終わるのだ、そんなものはさっさっと終わってしまえば良いと「オールド・プレイス」を清算し、5万年後の人類にメッセージを残すとすれば、「互いを愛せ」だろうか、というセリフをパートナーのアンヌ=マリー・ミエヴィルに語るゴダールは、いや、やはり「1年に1回はグリフィスの映画を上映せよ」だ、と本気とも照れとも決めかねるセリフを続ける。その直後の『愛の世紀』(01)や『アワー・ミュージック』(04)で我々を大いに驚かせた21世紀のゴダールを想えば、あながち冗談とは思えない。ゴダールとミエヴィルの会話という形をとりながら、20世紀末における芸術の役割を語るという試論が渦巻く濃密な50分間は、圧倒的に美しく、しばしば酷く残酷な映像と共に、あっという間に過ぎ去っていった。ここで再び、ドミニク・パイーニの発言に戻る。



「ゴダールは、MOMAと揉めた。出資者は、アメリカのアーティストについて語ることを要求していたが、ゴダールが作った作品は全くそのようなものではなかった。ポンピドゥーで行われた「ユートピアへの旅 ジャン=リュック・ゴダール 1946-2006」は、「一昨日」「昨日」「今日」というエリア別にネーミングされ、そこに「明日」=<未来>はない。世界は先に行く程悪くなると考えるヘルダーリンに近い考え方だ。ゴダールは自らを"最後の映画作家"だと見なしている。リュミエール兄弟を、印象派の"最後の画家"であると言っているのと同様に、映画からデジタルへ移行を成し遂げた最初のひとりであるから、自らを"最後の映画作家"と言うのだろう。彼は、メランコリーを込めて、"映画"は死につつある、"映画"はもはや完成してしまったと思っているのだ。ゴダールの最大の作品『(複数の)映画史』の章タイトルには、全て複数の<s>が付いている。これはいわば墓碑名のようなもので、全ての映画史を清算するという彼のメッセージとなっているのだ。"映画"は、しかし、目的に達しなかった。"映画"は歴史の途中にあり、歴史に終末を与える事は出来なかったと言っているのだ。『shore』を止める事が出来なかった"映画"の無力を指摘している。」

「ゴダールは、ポンピドゥーでの展覧会を止めようと思ったことがあった。準備はとても遅れていた。展覧会の小さなモデルが出来ていたが、もちろんそれをそのまま展示出来るはずもなく、そこには何らシナリオらしきものはなく、私は病気になりそうだった。展覧会は上手く行きそうにないと私は思った。ゴダールは、ポンピドゥーを機能させなかったのだ。本来であれば、彼には、不可能な要求をしていく必要があったのだが、ポンピドゥーは逆にYESと言ってしまった。この展示は、正に壊されるために作られた展示だった。
フレノワの学生の作品について言えば、ゴダールは彼らがやっていることについて全く理解していなかった。ゴダールは怯えていた。彼は、全く理解出来なかった作品について、その学生に、この作品についてメイキングのドキュメンタリーを作るべきだと言った。
「ユートピアへの旅 ジャン=リュック・ゴダール 1946-2006」は、映画の博物館のようなものだった。完全にゴダールの問題であり、ポンピドゥーの問題ではなかった。彼は、途中で危険な道に入っていくことに気付いたのだと思う。フレノワの学生たちの作品を見た時に彼は、コンプレックスを感じたに違いない。彼は怯えた。そこで、自分のプロジェクトを実物大のものにすることができなかった。ゴダールは、実質的にはたった1ヶ月で準備をした。センターの近くから捨てられていた廃材などを集めてきた。"ユートピア"は、ゴダールにとっては、迷子の"アルカディア"となった。粉々に壊れた世界。恨み、メランコリー、後悔が、彼の主題だった。3年間掛かって準備されたが、実現されてはならないものだった。映画を作れない映画作家の映画を作ってきたゴダールが、同じことを展覧会で行ったのだ。ゴダールは、フランス人にとっては、スイス人であり、根本からロマンティックな精神の人である。彼は、ヘルダーリンをよく読んでいた。『軽蔑』(63)では、フリッツ・ラングがヘルダーリンの詩を朗読する。つまり、彼は嘆きのアーティストなのだと思う。このドキュメンタリーの中でも、知られてはいるけれど、認められてはいないという言い方をしている。一方で、学生は彼を神格化してはいるが、実際は、彼の作品を見ていないという学生もいた。数学者の話をして涙を浮かべるゴダールは、本当に自分をその男に重ね合わせていたのだ。」

最後に、東京日仏学院院長ロベール・ラコンプ氏からの"政治的なゴダール"について語ってほしいという要望に応えて、ドミニク・パイーニが"率直さ"の美徳を隠さず誠実に語った。

「中国寄りのスイス人の中でも一番馬鹿な人、それがゴダールだ。68年問題、反ユダヤ主義、ドキュメンタリーの中でも語った原爆に関するエピソード、そして、過去の毛沢東主義、そうした全てが本当にバカバカしいものだと思う。彼は、完全に政治的に間違っていると思う。偉大なアーティストの政治的な思想は、必ずしも正しいとは限らない。反ユダヤ的なものは、本当に彼の中のあるのだと思う。彼は、政治思想の実験を行った。そして、ナイーブな騙されやすい人々は彼の間違いに影響を受けた。そもそも彼は、正面から議論をすることができない人間だ。いつでも途中で話を逸らして、相手を煙に巻いてしまう。それでも、ゴダールは正しい考えを持っていた。彼の作り出した映像は正しいものだったが、言葉を使うとその正しい使い方が出来なかったのだ。ドキュメンタリーの中で、彼は、パレスチナはドキュメンタリーであり、イスラエルはフィクションだと語ったが、私は、それは逆だと思う。ここ数年のゴダールは、左程豊穣なものを生み出しているとはいえない状況にある。」

なんという恐るべき率直さ。あまりの歯に衣着せぬ欠席裁判の激しさに、プログラム・ディレクター坂本安美氏の終幕の言葉も「いよいよ孤立感を強めていくゴダールについて、最後に是非とも擁護しておきたいという方がいらっしゃれば発言をして頂きたいのですが、もう時間が来てしまいました」という発散しきれない熱を帯びたものとなった。それでも、今になって考えてみれば、こうして"この男"について語られることの全ては、やがて男の伝説のひとつひとつになっていくのだとしたら、全ては"ゴダール神話"をより強固なものにする方向で働くのだと言っても良いのかもしれない。そうだとすると、一聴するとあまりに率直な発言の数々は、ポンピドゥーの展覧会で失望しながらも、今なお敬愛の念を抱いているというゴダールに対するドミニク・パイーニ氏の"友情"あっての深慮遠謀、と受け取るべきなのだろう。


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