OUTSIDE IN TOKYO
Werner Herzog INTERVIEW

ヴェルナー・ヘルツォーク『世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶』インタヴュー

3. 映画は、あるヴィジョンの瞬間を与えてくれる。
 それは恍惚、つまり宗教的な恍惚を見せることができるわけです

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OIT:目に見えない、未知で、スピリチュアルで、神話的な世界について聞かれることは多いと思いますが、それはどう説明できますか?
WH:ある意味、映画はその一部を見える状態にすることができるのだと思います。映画にはその力があり、スピリチュアルなものを具現化することができ、ある恍惚の瞬間が存在するのです。そこにはどこかスピリチュアルなところがあり、常にではないが、時に映画はそれを見せることができる。それは恍惚、つまり宗教的な恍惚を見せることができるわけです。映画は、あるヴィジョンの瞬間を与えてくれる。私が追い求めているのはそこです。

OIT:『フィッツカラルド』とか『アギーレ/神の怒り』などでもそうした表現が目的だと言っていいわけですか。
WH:そうですね。私の全ての映画がそうです。キンスキーとは確かに、特にそうだったように思います(笑)。キンスキーとの(関係の)過酷さから、彼のことが今でも何度となく話題になりますが(映画の現場を離れようとするキンスキーに拳銃を突きつけて引き止めた話は尾ヒレも付いて語り継がれている)。彼があまりにクレイジーで、ヒステリックで、混乱していたから(笑)。でも、もちろん、監督は野生の獣を飼いならすのも仕事のうちです(笑)。

それでもキンスキーとの映画だけではありません。それは我々人間の本質の深奥を見つめるものです。実質的に、私の全ての映画に言えることだと思います。

OIT:ある意味、プライマル・スクリームに引き寄せられるところも作品を繋げているものと言えますか?
WH:うーん、その呼び方はあまり好きではありませんが。プライマル・スクリームという言葉にはあまりに心理学のイメージがつきまといます。プライマル・スクリームの概念自体が好きではないので。でも人間の中に何か共通性があるのです。洞窟絵画を見る時、それらは1万年前、1千万年前に描かれたものですが、ある意味、それを見た我々もそこに自分自身を発見するのです。そこには我々の人間の魂の目覚めがあるのです。それを我々は瞬時に分かるのです。

OIT:あなたがその洞窟の中でそれらの絵を見ながら、それを描いた人間たちを想像している時、あなたには彼らはどのように見えたのでしょう。
WH:その人間たちを思い描こうとしたことはありません。彼らがどんなものを身に纏っていたのかはなんとなくは分かっています。彼らがどのくらいの背丈だったのかもなんとなく分かります。彼らの実質的な生活もなんとなく理解できます。つまり、狩猟と採集です。私はある意味、彼らの風貌を想像しようとしたのではなく、自分が彼らの立場になってみたらどうだろうかということを想像してみます。約3万年前に自分ならどう生存できたのか。マッチもなしにどうやって火を起こすのか。おそらく私は生き残るだろう。狩りもできるだろう。たぶん、馬を狩ることになるだろう。馬が逃げる時に、どの方向に逃げるかはだいたい予測がつけられる。ある方向に逃げるように仕向けることもできるでしょう。そして通り道を狭くして罠を仕掛ける。だから彼らがどのようにしたのか、どのような風貌だったのかというより、自分なら石器時代にどう生きられただろうということを考えたのです。自分ならどんな言葉を話しただろうか。そういうことを考えていったわけです。

OIT:そして我々がアートにおいてそこからあまり発展していないということも仰ってましたね。
WH:まあ、ある意味(進化は)しているんですけど、それはその時の文明に応じて転換されてきたにすぎないということです。でも本質的に、我々は人間であり、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵の中に自分を発見し、ショーベ洞窟の中にも自分を発見し、同じように、20世紀のフランシス・ベーコンの絵の中にも自分自身を発見するわけです(笑)。

OIT:あなたにとって、フィルムで(映画を)撮ることはますますむずかしくなってきているようですが、現在はかつての巨匠たちもビデオで撮り始めています。ビデオで撮ることをあなた自身はどう体感していますか?
WH:(深く溜息をついてから)フィルムで撮るかビデオで撮るかは重要ではないのです。私自身のことで言えば、私はまだセルロイドの男です。それはセルロイドの方がまだクォリティーが高いからです。だからと言って、私がノスタルジーを感じているわけではないのです。そこに感傷はありません。すぐにビデオもフィルムのクォリティーに追いつくでしょう。ただし、洞窟の中での3D撮影はデジタルでしかあり得なかったでしょう。それは確信しています。私は南極でも映画(『Encounters at the End of the World』2008年)を撮りましたが、それは2人だけで(行き)、極寒の気候の中で撮りました。フィルムのストック自体がぼろぼろになり、崩れてしまいます。とてもむずかしいわけです。フィルムを温めるだけで大きなクルー、大きな機材が必要になる。でもデジタルだとその問題は回避できる。だからある映画では、他に方法がないという意味で、デジタルで撮るしかありません。でもセルロイドで映画が撮れる限りは、セルロイドで撮り続けるでしょう。

OIT:あなたの映画作りへの衝動は絶えず続いているわけですね。
WH:(笑)ある意味ね。そうですね。私は昨年6本の映画を撮りました。若い時分よりも最近の方がより多くの映画を撮っています(笑)。それにトム・クルーズとも演技で共演したし、自分の映画学校も開き、本も書いています。

OIT:それを続ける原動力はどこからくるのでしょう。
WH:さあ、分からないな。自分のやっていることが好きだから、しかないと思います(笑)。


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