OUTSIDE IN TOKYO
Stephen Nomura Schible INTERVIEW

スティーブン・ノムラ・シブル『Ryuichi Sakamoto: CODA』インタヴュー

5. ベネチアでは、タルコフスキーの『僕の村は戦場だった』や黒澤の『羅生門』が上映された
 “サラ・グランデ”というメイン会場で上映されたことが感慨深かった

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OIT:ところで、監督は、いわゆるシネフィルですか?
スティーブン・ノムラ・シブル:ある特定の時期に沢山映画を見たことはありますが、僕より、遥かにシネフィルな人は沢山いますから、それなりに見ていたとは言えますけれど、音楽が好きだったということが、『Ryuichi Sakamoto: CODA』に関しては大きかったですね。自然と、編集者の中でもピアノを弾ける人がおりましたし、サウンド・デザインもご両親がミュージシャンという人がやってくれました。

OIT:この映画は、ドキュメンタリー映画ではありますけれども、構成がしっかりしていて作りはフィクションに近い印象を待ちました。
スティーブン・ノムラ・シブル:それはどうなんでしょうかね。例えば、自分が大学時代の話ですけれど、原一男さんの下でアシスタント・ディレクターをしたことがあって、ニューヨークで国際交流基金のお金でテレビ番組のドキュメンタリーをやっていて、一夏だけのことだったのですが、彼は、オフの週末とかに、ブライアン・デ・パルマの映画とかね、一緒に見に行ってくれたんですよ。いわゆる当時のシネコンのような場所で、普通のジャンル映画を見るわけです。そこにあまり違いはないと思っていて、確かに、フレデリック・ワイズマンのような観察映画のようなものはありますが、大概の作品は何らかの構成があって、変化があるという意味では、ドキュメンタリーもジャンル映画も一緒なんじゃないですかね。それこそ、ロバート・フラハティの時代なんかは、ドキュメンタリーというのは再現映画だったわけですから。その辺になると、あまりプロットはないですけど、そこに境目は感じないですね。あとは、僕が撮り出した頃って、C300というカメラの出だしで、キャノンは、それを劇映画用のカメラとしてマーケティングしていたんですね、いわゆる一眼レフの5DとかがWEBのビデオとかで凄くシネマティックに使われた時代です。実際は、技術的には、ビット数も低いし、劇映画用のカメラとしてはどうかな?と自分は思ったのですが、映像を見た時、これで劇場向け映画のドキュメンタリーが作れるとは思いましたね。今はもっとどんどん進化しているんだけれども、自分の場合は、最初からそういうカメラで撮り始めました。だから、ある種劇映画的な味のあるドキュメンタリーが作れる時代になったということには自覚的だったかもしれないですね。劇映画的であることと、先程話に出た音楽的であるということが交差したという感じは確かにありますね。

OIT:今後はどのような活動を予定されていますか?
スティーブン・ノムラ・シブル:実は、『Ryuichi Sakamoto: CODA』を撮り始めた頃は、映画はもうこれでいいかな、と思っていたんです。それから5年も続けて、どういう出来になるか、途中の段階では全然分らなかったものですから。それがやっと完成して、そうやって聞いて頂けるようになったこと自体がとても光栄なことなんですけど、これからどうしようかなと思ってますね。今は、ドキュメンタリーをひとつお声掛けさせて頂いてはいるのですが、当面は『Ryuichi Sakamoto: CODA』の関連で、DVDの中身をどうするとか、色々ある感じです。

OIT:ベネチア国際映画祭での反応はどうだったのでしょうか?
スティーブン・ノムラ・シブル:結構良かったと思いますね。ただ個人的には、本当にギリギリで完成も間に合ったので、何とか映画になった、というだけで、その後の反応というのは、あまり気にしないようにしていたんです。気にし出すと、結構気になってしまうので。ただ、反応は良かったと思います、劇場もメインの“サラ・グランデ”という1000人位入る会場で、タルコフスキーの最初の長編映画『僕の村は戦場だった』(62)もそこで上映され、黒澤明の『羅生門』(50)もそこだったと思います。本当に歴史のある場所でかかったっていうのは、感慨深かったです。

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