OUTSIDE IN TOKYO
PARK CHAN-WOOK INTERVIEW

パク・チャヌク『イノセント・ガーデン』インタヴュー

3. 観客が自分なりの解釈が出来るようにすること、
 視覚的な比喩、聴覚的な比喩も大切だと思います

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Q:先ほど心理スリラーという言葉が出たんですが、今回の作品はヒッチコックを思い出す人が結構いるのかなと思いました。“階段”や“シャワー”、“鳥”などはヒッチ的なモチーフといえるものですが、オマージュ的に入れたものなのか、あるいは脚本に元々あったものなのか、どちらでしょう?
パク・チャヌク:脚本に元々あったのはヒッチコックの『疑惑の影』(43)です、それに対するオマージュの部分はかなり強調されてありましたね。まずそもそもアンクル・チャーリーという名前、それから叔父と姪の間で愛情が芽生えるところ、そういったところも脚本にありました。そういう元々オマージュ的なものもあったんですけど、そこに私がさらに追加して膨らませていったのです。でもそれはヒッチコックに対するオマージュの為というよりも、私自身がこれは作品の内容に合うだろうと思って、色々付け加えていったらヒッチコックと出会ったという感じなんです。例えば、“狩り”のモチーフは私が付け加えたものだったんですが、“卵”を主人公が好きなわけですが、それは鳥の卵という意味も含まれていますけど、狩りをする時に何を狩るかっていうと鳥を狩るっていう風に繋がっていき、そういう家だったからお父さんの書斎には鳥の剥製があると。考えてみたら自然と『サイコ』(60)を思い出すなっていう順番になっていったんですね。だから私としては最初から『サイコ』のオマージュの為に剥製を入れようとしたわけではなくて、狩りとか卵とかについて思いを巡らせる内にそこに辿り着いた、私自身としても面白い結果になりました。今、挙げて下さった中の“シャワー”と“階段”っていうのは元々ミラーさんの脚本にありました、ただ階段は一回しか出てこなかったんですね。私はもっと色々なものを表したかったので、映画の全体に渡って階段で重要なことが起きるという設定を加えていきました。

Q:監督の映画ではよく“水辺”で惨劇が起きます。今回もそうなんですがそれは無意識なものですか?
パク・チャヌク:水辺ってどこでした?

Q:今回『イノセント・ガーデン』では、車中で惨劇が起きますが、その車が止められている手前に川があります。『復讐者に憐れみを』(02)の最後のシーンも川沿いですし、『オールド・ボーイ』(03)の高層ビルの部屋の中にも水が流れていました。
パク・チャヌク:私は映画の中で都市が出てきたとすると、都市の対極をなすものがもちろん自然とか風景だと思いますけれども、それと同時に、人や、映画でよく見せる美しいもの、温かいもの、純粋なものってあるじゃないですか、大体映画の慣習としてはそういうものも必ず取り入れると思いますが、それと対極を成すのが自然だと思うのです。だからこそ自然は怖いなと思います。自然そのものは美しいかもしれないですけれども、そういった美しい自然の中で怖いことが起きると、対比が強くなりますよね。その対比を際立たせるために、そういうシーンを入れています。そういう時に惨劇が起こると、自然は自分が美しいだけに本当に無邪気に何もせずにそれを眺めている、そんな意味合いがある気がします。

Q:監督は、映像に趣きを置いてストーリーを伝えることには慣れているとおっしゃられています。やはり映画は映像で物語を伝えるものであるという信念をお持ちなのでしょうか?
パク・チャヌク:映画において台詞が大事でないわけではないんですが、あまりにも台詞で多くのことを言ってしまったり、特に一番大事だと思われることをずばり台詞で言ってしまっては、あまりにも安易すぎる、簡単な道を歩いて行くことになってしまう。そうなると観客にちょっと押し付けがましく映画を観て下さいっていうことになってしまうので、私は台詞でないものを通して何か描写をしたいと常々思っています。そうすることで観客は受け身ではなくて、もっと考えて映画を観るようになると思うんです。例えば“詩”の場合、ずばりと言わないじゃないですか、比喩が多いですよね。雲が美しいっていう風にずばり言うことも出来るんですけど、それでは詩にならないから他の表現を通して結果的に雲は美しいっていうことを伝えるわけですよね。そんな風にすることで読む人達も、雲は美しいんだっていう感情を自分で引き出している。だから映画もそんな風にありたいと思っています。出来るだけ観客が映画に参加できるように、そして自分なりに解釈が出来るようにする、視覚的な比喩、それから聴覚的な比喩っていうのも大切だと思います。

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