OUTSIDE IN TOKYO
MIYAKE SHO INTERVIEW

三宅唱『Playback』インタヴュー

7. アメリカ映画にはやっぱり最前線があると思っています

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OIT:今おいくつでしたっけ?
三宅唱:28です。

OIT:同年代の若い人の映画を観て何か感じることはありますか?
三宅唱:同年代の自主映画はあんまり観ないので……というと嘘になりそうですが、たまにとんでもなく面白いのがあって、楽しいですよ。邦画は、俳優さんへの興味として観ることはありますが、たいていアメリカ映画を先に観ています。

OIT:今日たまたま試写でアルドリッチの『合衆国最後の日』(77)を観たんですけど、今や核の時代にもうなってしまっていて、そうした状況に政治的な指導者がどういう風に向き合ってるのか、ひいて言えば一人一人がその現状を許している状況、社会、っていうのがあって、それって大丈夫なの?みたいな映画だったかなと思うんですけど。スリラーでもありつつ、そうした政治的メッセージについてはどう思いますか?
三宅唱:メッセージと言ってしまうと微妙なんですが、つくった人間の生活感や倫理感、その人が世の中のどこにいて誰を描いているのか、それ自体が政治性だと思っています。僕個人は、いまいった意味で政治性がある映画をつくってきたと思うけれど、とはいえこれまで前面には出していないのは問題かもしれない。メッセージがあっても、映画は壊れない、というのは最近ようやく自分のなかで消化できました。『合衆国最後の日』は、ロカルノでDCPのリマスターを観れたんですね。これはある先輩から言われたことですが、ここ数年の政治状況の中でおれ達の一体誰が国の事を本気で考えて撮ってる?アルドリッチをちゃんと観てるか?という話になり、それがとても印象に残っています。同じ遡上に全くのせたくないですが、ロカルノから帰国して観た『ダークナイト・ライジング』がとんでもない核の扱い方をしていたから、ただただ最低な映画だと思いました。巧い下手の批判もできますけど、単に、かなり危険だな、と。

OIT:僕は『ダークナイト・ライジング』を見てないので、あまり大きな口は叩けませんが、アメリカ映画、後退してないですか? 70年代にはアラン・J・パクラの『大統領の陰謀』(76)とかがあって、リアルに政治的な題材を扱っていたのに今はそんな事になっちゃってるっていうことなのであれば。『ダークナイト・ライジング』に関しては、蓮實さんも大批判してましたね。
三宅唱:後退かどうかはわかりませんが、アメリカ映画にはやっぱり最前線があると思っています。政治的にも、撮影技術も、エンターテイメントとしても、いつも最前線。だから、いつでもみんなでアメリカ映画を観なければならない、というのはずっと思っています。これは蓮實重彦さんから教わったことでもあるし、自分の実体験でもそう思います。

OIT:ロカルノ(国際映画祭)はどうでした?
三宅唱:とにかくいいところでした。はじめてのヨーロッパだし、はじめての映画祭、あんな大きな国際映画祭だったので、全部楽しかったです。あとは、性格かもしれませんが、映画監督としての責任やプレッシャーみたいなものが新鮮でした。ゲストとして、リスペクトされる対象になるわけで。

OIT:振る舞いとか、スピーチとか。
三宅唱:そうですね、リスペクトがまともに成立している場所は健全だなと感じました。作品に対して、監督と観客がフェアだな、と。偉そうな言い方になるといやなんですけど、いま日本で、ぼくらのような自主映画が公開されることが増えて、ほんとにありがたいわけですが、その分下手に恐縮してしまう空気がある気がするんですね。監督としてなにかを言う、なにかを聞かれるという機会を案外奪われている。どうやってフェアにリスペクトしあうべきか、そういうことを考えるようになりました。


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