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Press conference

レオス・カラックス『ホーリー・モーターズ』来日記者会見全文掲載

5. 様々な年齢の女性たちとの出会いを通じて、一つの長い人生を一日に凝縮した

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Q:もし、監督がオスカー氏であったとしたら、やはり11の役割なのか、もし監督が実生活でオスカー氏のような人物だとして何かに成り変わることがあるとするならば、何になりたいか教えてください。
レオス・カラックス:もうすでに、私はあまりにも多くの役割を演じ続けています。例えば、13歳の時、映画に興味を持つ遥か前に、自分の名前を変えました。その後人生で色々な役を演じ続けていて、それはとても疲れることだと思います。若い時に映画を作り始めましたけれども、私は映画の勉強をしたわけでもありませんでしたし、一作目を作った時、自分はそれ以前には撮影現場に入ったことすらありませんでした。ですからそのような状態で映画を作り始めると、何かごまかしをしているのではないか、インチキをしているのではないかという気持ちを持ってしまいます。そこで外に向かっては、いわば、はったりを言ったり、嘘をついたりしなければなりませんでした。二十歳で自分がこの映画を作りたい、これが出来るという時、それは絶対に嘘になってしまいます。このようにして役を演じ続けているわけですけれども、そうやって様々な役を人生で演じるということは、前に進むためでもあり、また自分を守るためでもあるでしょう。また、その他にもプライベートな生活で様々な役を演じています。それは恋愛や子供にも関わる役なのですが、むしろそれらの役を演じることを、私は好きだと思っています。それらは人生の演技の一部なのだと思います。しかしそうした演技を止めた時、一番疲労感を持つのではないかと思うのです。映画なのか恋愛なのか分かりませんが、どこかそこに行けば、自分自身が何なのかを見つけることが出来るとされている場所があるはずです。ですから全ての人々がこのように演技をしている時と、そして自分自身が誰なのかを知ろうと努力をしている時との間を、旅を続けているのではないでしょうか。
Q:今、演じている時と演技を止めた時という言い方をされていたんですけど、今回の作品を観ていても、各キャラクターが明らかに演技をしているっていう時と、あと昔の恋人に遭遇していくシーンだと、もしかしたらそれは演技をしていないのかもしれない、もしかしたら彼に何か別の実人生があるのかもしれないという風に見えるシーンもありました。そうした各キャラクターの描き方のバランスをどう考えていたかを教えて頂きたいです。
レオス・カラックス:確かに人は映画作家になるために生まれてくる、父親になるために生まれてくる、ジャーナリストになるために生まれてくるのでしょう。けれども人はインタビューを受けるために生まれてくるのだとは思えません。とても不自然だと思います。自分をジャーナリストに作り替える、自分を父親として作り替える、映画作家として作り替える、子供を持つ存在として作り替える、そういうことをするのであればそれを真剣に行わなければなりません。他の人の真似をするだけでは十分ではありません。もちろん周りを見回しはします。しかし自分を父としてジャーナリストとして、あるいは映画作家として発明をしなければならない時は、例えば子供があって、映画があって、また記事があって、その自分を発明していくわけなんです。この作品はSFの世界だと先ほど申し上げました。ある人の人生から別の人の人生へ、ある人生から別の人生へと移り行くわけですが、一つの人生から抜け出して別の人生へと移って行く時、傷つかずに抜け出すことはできません。映画館の観客にしても同じなのだと思いますけれども、普通は生きることと生きることの表象の境界をはっきりさせようとする傾向があるかと思うのです。けれども『ホーリー・モーターズ』においては何度もその境界が曖昧になっています。例えば、彼が父親で車の中で自分の娘に話しかけている時、たとえかつらを被っていてもそんなことは忘れてしまって、これが本当のオスカー氏なのではないかと思うこともあるはずです。しかしオスカー氏が本当に誰なのかということは、何度も質問されましたけれども私には分かりませんし、そうした疑問は提示されるべきではないと思うのです。この世界は作られた世界であって、恐らく、自分が誰なのかを探している人間を描いている、その際、オスカー氏が誰なのかという疑問に対して答えはないわけです。自分の方にも答えがない。なぜなら、この映画は短い時間で空想をし、短い時間で撮影をし、ラッシュを見ませんでした。だから映画を自分が初めて発見をしたのは編集の瞬間だと言っていいでしょう。その瞬間にこの映画に対して一定の方向性は与えなければならないと考えます。その編集の段階で初めて観客のことを頭に浮かべます。最初の20分間は観客にとって難しいものに見えるかもしれません。オスカー氏が誰なのかということが分からない状態で、果たして観客はそれに耐えることが出来るのかということを考えました。一つの役から別の役に移って行く人間、そうした人をそのままに任せて20分間観客が観てくれるだろうかと考えました。ところがセリーヌとの間に起きていることを通じて、またここに出てくる様々な年齢の女性達、つまり若い女の子や子供、年老いた女性など、様々な年齢の女性が登場しますけれども、その女性との出会いを通じて、これは一つの長い人生を、様々な実像を、一日に凝縮したものであるということが分かっていくのではないかと思うのです。なぜならば、それが、現在を生きている経験として、私が提供できる唯一のものだからです。


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