OUTSIDE IN TOKYO
Press conference

レオス・カラックス『ホーリー・モーターズ』来日記者会見全文掲載

2. 映画は、いつも現実からの抵抗と対決して作られるもの

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Q:面白いなと思った場面が、いくつもあるんですけれども、お墓の場面で墓石に“こちらのサイトをご覧ください”というのが書いてありましたね。インターネット上の情報を、墓石に書くというのは何か監督にとって特別な意味があるのではないかなと思いました。色々な人生の悲哀とか笑いとかがアンサンブルになった映画の中で、特にそれが私は気になったもので伺いたいと思いました。
レオス・カラックス:先ほど申し上げたように、この映画の根底にあったのは二つの感情です。自分自身であることの疲労と自分を新たに作り出す必要という二つの感情でした。この二つの感情を描くために、私はサイエンス・フィクション、SFの世界を空想しました。その世界では、人と動物と機械が支配的な世界、即ちバーチャルな世界に対面して、そうした世界と半ば連帯をしているというSFの世界を考えたのです。サイエンス・フィクションが面白いのは、現実を取り扱うことが出来るからです。SFには現実とは何かという問いかけが必ずあります。果たして、(私たちは)まだ現実に耐えることが出来るのか?実際に経験をし続けることが出来るのか?まだ実体験を生きることが出来ると私は信じたいわけですけれども、果たしてアクションをすることはまだ出来るのか、アクションが出来るのであればそこには責任が伴います。まだ人は責任を取り続けることが出来るのか?そうした問いかけが生まれてきます。ですから墓石の件はそうした問題に対する一種のジョークです。
Q:撮影現場で一番大変だったシーンはどこですか?以前、『TOKYO!』の撮影現場を見させて頂いたことがあって、その時に困難な現場でも、監督は現場を止めたりしたことを見たことがあったので、今回もそういうことがあったのかなと思ったのです。
レオス・カラックス:難しいって、困難っていうのは何が困難なんでしょう?
Q:撮影で時間がかかったり、苦労が伴ったり、思ったより長くかかったり、役者やロケーションの状況ですとか。
レオス・カラックス:そのような困難が映画につきまとうのは、当たり前のことではないでしょうか。映画はいつもそのような困難に対決して作られるものだと思います。私が作っているのはドキュメンタリーではありません、フィクションを作っているからこそ全てが私の意図に対して抵抗してくるのが当然です。『TOKYO!』の撮影の時はとりわけ特殊な事情がありました。それは撮影許可がない、撮影禁止されている場所で撮ったということです。そうでなくても全てが抵抗します。例えば、パリでサマリテーヌ百貨店で撮影をしたいと思っても、サマリテーヌ百貨店で撮影をする権利がない。お金があればスタジオにサマリテーヌ百貨店を再現して撮ることができるでしょう。しかし完全にCGにもしたくありませんでした。このように現実の側から抵抗が来るのです。そうしてまた、俳優が疲れているとか、私が疲れているとか、そういった意味での抵抗も困難になってやって来ます。しかし映画作家であれば誰しもそうした困難に対決することが出来なければなりません。また私はそれをすることが好きです。映画の詩、ポエジーは映画の中にあるドキュメンタリー的な現実の部分から生まれてくるのだと思います。自分の目の前に俳優がいて、その俳優の肌、身体がある。それが一種の化学です。そしてその身体に衣装を着け、音楽をのせて演出をしていかなければなりません。こうした、ドキュメントの部分とそうでない部分と両方がなければならない。先程、バーチャルな世界ということを言いましたけれども、バーチャルな世界に興味はありますが、バーチャルな世界を無理矢理自分に押し付けられるのは嫌です。デジタルカメラの使用についても反対ではありませんが、デジタルカメラを無理矢理押し付けられることは大嫌いなのです。
Q:この映画の一つの重要な要素として肉体的な疲労というものがあるということですけれども、映画を作る上において、肉体と精神のバランスをどう考えるのかということと、あと主人公が演じるということは、ただただ消費をしているのか、それとも何かを生み出しているということなんでしょうか?
レオス・カラックス:この映画のオスカー氏の疲労は、先ほどからお話ししていたような疲労がもちろん含まれています。そして疲労は肉体的な疲労でもあり、お話ししていたような自分自身であることからくる疲労でもあるわけなんです。私は最初から常にそうした自分自身でいることの疲労を撮影をし続けてきたような気がします。ドゥニ・ラヴァンと若い時、第一作を撮った時からそうでした。そして様々な年齢を人は移り行くことが出来ると思うのです。ドゥニ・ラヴァンの周りに、第一作では若い俳優達を配していますけれども、老人も出てくれば赤ちゃんも出てくる、このように人生の様々な段階を人は割合簡単に移って行くことが出来ると私は考えます。自分自身、まるで生まれたばかりの乳児のように感じることもあるし、老人のように感じる瞬間もあります。ですから自分が年をとっていくとか、そういう風な考え方はしないのです。あらゆる方向に向かって人生の様々な段階を移り行くことが出来るのではないかと思うのです。確かにこの映画の中で、私は存在しない職業を作り出しています。ある人生から別の人生へと旅を続けていくという仕事です。また、一日でそれを語ろうとしました。即ちフラッシュバックや映画のテクニックを使わないで、あらゆる人生から別の人生、人生のある段階から別の段階へと移り行くことを一日の間で示そうとしたのです。今日、生きているという経験がどれほど広がりのあるものかということを一日の物語として描きました。少なくともそれは現在、生を得て生きている、その私の経験を語っています。これが今のご質問に関して私が言えることです。


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