OUTSIDE IN TOKYO
KUROSAWA KIYOSHI INTERVIEW

小森はるか『息の跡』インタヴュー

6. 自分で撮りたい。撮って編集するのが私の作ることだと思っています

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OIT:ところで、今も東北に住んでいるんですか?
小森はるか:今は仙台です。

OIT:何か制作をされていますか?
小森はるか:瀬尾と一緒に取り組んでいることと、あと個人でやっていることと両方あります。陸前高田という土地とは、瀬尾と一緒にこれからもずっと関わり続けたいと思っています。そのために、他の土地のことももっと知りたいし、震災とは遠いけど重なるような記憶にも触れたいと思っています。今、山の奥にあった終戦の記憶を二人で聞き始めています。瀬尾は、人や、風景を訪ね、遠い記憶を聞き歩いていく。そこで聞いた話を一人称の物語で書いていて、そのテキストとドローイングを編んでいます。わたしは同行しながらその場で起きていくことを撮っておく。そのようにして作る映像は、絵とか文章と一緒にあって機能するようなものです。その他に、個人としては『阿賀に生きる』(92)がきっかけだったんですけど、新潟にもとても大切なつながりができていて、通い続けたいなと思っています。

OIT:そうでしたか。『息の跡』には、『阿賀に生きる』の何かが生きているという感じがしていました。そして、イタリアのネオレアリズモです。そこからもう一度再生する、その零年という感覚、都会ではなくて、山や川の自然がある地方(本作品では沿岸地帯)の人々の生活に寄り添った視点があるからです。ところで、『息の跡』というタイトルは、どのように決めたのですか?
小森はるか:最初から、タイトルだけは浮かんでいたんです。雨の日、バスに乗っていると、さっきまで乗っていた人の温度が、窓ガラスに白く曇って残ってることがあるじゃないですか。今はそこにいないけど、少し前には誰かがいたんだなって目に映る温もりが、陸前高田の街には、わたしには見えないけどたくさんあるような気がして、暮らしている方達がとても大事にしてると思ったんです。いつか「息の跡」という作品になればと思って人の営みを撮りたいと思い始めました。でも実際は、記録を続けていく中で佐藤さんの映画をつくりたいと思うようになり、このタイトルでいいのかなって結構悩みました。それはスタッフの方達とも話したんですけど、佐藤さんのいたお店がなくなった時に、このタイトルは最初に思ったイメージとは違うけれど、別の意味でしっくりくるなと思って、やっぱりこれでいいなと思ったんです。

OIT:今回は、ご自分で撮影もされていますけれども、自分で撮らざるを得ないから撮ってるのか、あるいは、自分がやっぱり撮りたいっていう感じなんですか?
小森はるか:自分で撮りたいんです。撮って編集するのが私の作ることだと思っています。それ以外の役割は全然向いてないと思います。

OIT:この映画の場合はないのかもしれないですけど、前の『the place named』の時は脚本のようなものがあったんですか?
小森はるか:はい、ありました。ですが、脚本の素地となった「わが町」を選んだのは、出演した原麻理子さんという方がとても大切にされていた戯曲だったからなんです。そして、「わが町」を彼女がどのように演劇にするのか、その稽古を撮りたかったんです。わたしが脚本で筋道はつくるけど、その先は全部彼女に任せていました。彼女が動いていくあとをついていって、カメラで撮影するみたいな、そういう撮り方をしていて、基本的にはカメラマンでそこにいたいというか。

OIT:カメラを持ったままでいたいっていうことなんですね。
小森はるか:はい。

OIT:映像も素晴らしくて、こんなとこまで言ってもしょうがないかもしれませんが、埃がきらきら光っていて、最近埃が輝いている映画が二つあって、それはこの映画ともう一つは、ヴェンダースの3D版『誰のせいでもない』(14)でした。小森さんは3Dで撮る気とかはないんですか?
小森はるか:なかったですけど、言われたらやってみたい気もします。

OIT:ゴダールみたいに自分でカメラを発明したりして(笑)。
小森はるか:そうですね、そういう機会があれば是非やってみたいです(笑)。



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