OUTSIDE IN TOKYO
JULIE BERTUCELLI INTERVIEW

ジュリー・ベルトゥチェリ『パパの木』インタヴュー

5. どういう洋服を着ているか、
 フィクションにおいて、細かいことはその人物を作り上げる上でとても重要です

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OIT:映画の最初にお父さんと娘が出て来て、たとえば家族の背景とか、彼らがどこから来たのかということも、僕らはあまり知らされることがないわけですね。家の中にあるものから僕らはそれを察するわけです。そうして色んな持ち物から知るという意図なのかなと思ったのですが、そのような理解でいいでしょうか。
JB:冒頭で夫婦が出てきて、愛し合っている夫婦であることは分かるし、その後に娘と父親が出てきて、時計をちょうだいと言って、時計をあげるという、すごく仲のいい親密な親子関係だなということも分かります。そういう意味で、説明がなくてもそういう関係性、どういう家族かという関係性を示すいくつかの映像を自分はまず提示するんです。そこであまり色んなことを見せてしまうのはよくないですから、少しずつ、見ている人たちがこのファミリーについて知っていく過程がやはりおもしろいと思うんです。この古い家には何年も長い間ここに住んでいるんだなということや、ちょっとした備品から父親が少しずつ作ってきた家なんだなということも思わせます。そういうヒントが細かいところから感じられると思います。写真もたくさん飾ってあったと思うのですが、その写真を見ると家族旅行に行った時の、その時その時の記念写真みたいなものがかかっていて、ああ、彼らの幸せな時間がここで感じられるなというのもあります。そういう家族のあり方や関係性を、言葉や説明で見せるというのはすごく古典的な方法で、少なくとも自分のこの作品には必要なかったと思うんです。この作品に出てくる細かい物が、彼らの関係性とか、彼らのあり方みたいなものを十分に示している、示すことが出来ると思いました。フィクションというのは、そういうちょっとしたもので、そういうことが説明できます。でもドキュメンタリーというのはなかなかそういう訳にいかないですよね。そこがフィクションとドキュメンタリーの違いかなと思います。あとフィクションで重要なのは服、どういう洋服を着ているかですね。たとえばクローゼットを開けた時に、中にどのような洋服がかかっているかというのも、その人たちの生活のあり方を示す根拠になるし、きちんと整理整頓されている部屋なのか、あるいは脱ぎ捨てたものがそこら辺に散らばっているような部屋なのかということを見ても、やっぱりその人たちの生き方とか考え方とか色んなことが分かってくる。見ている人にはどうか分からないけど、少なくとも監督として作る自分にとって、その中で演じる役者たちにとっても、そういう細かいことはその人物を作り上げる上でとても重要ですね。

OIT:小さな子供がクリケットのプロテクターをしてますが、そういうディテールですよね。
JB:はい。だからあれを見ると父親とクリケットをして遊んでるのかなって(思いますよね)。

OIT:今回のエモーショナルな流れというのはどういう風に構成しようと思ったのでしょう?というのは、だいぶ飛びますが、女性の視点から見たエモーショナルな物語の動かし方というのがあるかどうか聞きたいのです。この映画で構成されたエモーショナルな、物語の喚起の仕方、女性監督ならではの視点をもって感情が描かれているとはご自分で思いますか?
JB:自分としては、もちろん自分は女性ですが、それでは男性と比べて感情の動き方が女性だからといって何か違いがあるか、考えたことはないですね。そういう風に自分自身を分析したことがないので、恐らく答えにはならないと思うのですが、もちろん、それぞれの作品というのは作り手の色んな部分が投影されていると思うんですよ、だからその人との関係性においては類似点があるとは思います。監督というのは作品を作る時に様々な決断が必要になってきますし、色んなことを選択していかなければいけない。細かいことですが、この時はこの色を使うとか、彼の家はここだとか、全て監督の決断にかかってきます。もちろん男性の感性と女性の感性っていうのは違う、同じとは言いません。でも私は私の作品において必要なものを選びますし、それはたとえば男の人はまた別のものを選ぶかもしれない。でも別の女性が監督であったとしてもまた別のものを選ぶかもしれないですよね。そういう意味で自分は自分の感性にあったものをただ選んでいる。感性に添って決断をしているだけですよね。自分は男ではないけど、たとえば作品だけを観て、これは女の人の感情だなとか、これは男の人のだなとか分かるかどうかで言えば、分からないと思います。自分は作品だけ観ても分かりません。もちろん男性であっても、より女性的な、そういう女性性みたいなものを上手く描ける人もいるし、たとえば女性であっても戦争映画を作るような人もいますよね。キャスリン・ビグローみたいに。そういう男女の違いがないとは言わないけれど、それぞれがやっぱり女であっても男っぽい作品、男であっても女っぽい作品を作っている人はいます、だから違いがないとは言わないけれど、それは究極的には個人の感性かなと思います。やはり自分に近いもの、自分がよく分かっているものを作品の中に盛り込んでいく、どうしてもそういう方向性になると思うんです。だから今まで自分が作った作品は、わりと女性が主人公の作品が多いです。でもいずれ自分も男性を主人公にした作品を作る時が訪れるんじゃないかと思うんですね。女性だからといって女性が主人公の作品だけを作っているということではなく、男性でも女性を主人公にした作品を作っている人はたくさんいますから。だから自分が持っているものをまず有効に使って作品を作るというのは自分の作品に対するアプローチのひとつです。でもいずれはやはり男性を主人公に作品を作っていきたいと思います。自分が女性の作品を作っているのは、恐らく男性を主人公にした作品、男映画がどうしても多いので、そういう意味でもちょっと女性の方に傾倒しているということなのかもしれません。


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