OUTSIDE IN TOKYO
Jacques Doillon INTERVIEW

ジャック・ドワイヨン『ラブバトル』インタヴュー

4. テイクを重ねた末にあるシーンが出来上がった時は、
 自分が書いた脚本ではないかのように、台詞が全く新しいもののように聞こえてきます

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OIT:役者をある状況にまで追い込むことによって、そこからしか表現出来ない何かが立ち現れることを求めて、その瞬間を求めて撮影をしているようなところがありますか?
ジャック・ドワイヨン:その通りです。登場人物は既に極限の状況に置かれていますから、俳優が脚本に書かれている登場人物の極端な状態と殆ど同じレベルまで行かなければならない。撮影に入る時点では、俳優はやる気があったり、なかったりします。ですから凄く仕事をして、集中をして、努力をして、そういう状態にまで持っていくのです。ですから選択ではない、そういう状況にまで前に向かって進んで努力をしていかなければなりません。私の方は意地悪な先生のように、そういう状態にまで俳優が高まっていくことを要求します。それは厳しく要求をしなければいけないと思っています。あるシーンが私を喜ばせるようになるまで、段々とシーンが、マヨネーズが固まるように出来始めるのが見えてくるのですけれども、出来た瞬間にはそれが分かります。それ以前の様々なテイクや準備状況がそこに行くための過程であったと、はっきり分かるのです。

それは毎回感じることですが、そういう風にテイクを重ねた末にあるシーンが出来上がった時は、自分が書いた脚本ではないかのように、台詞が全く新しいもののように聞こえてきます。何かが起きる、その何かが起きた時に分かるのです。これは冗談でもなんでもなく、本当に自分で感動してしまう。何かが起きる、自分が書いた台詞とは聞こえない、初めて聞いたかのように目の前にそのシーンが展開していきます。そうすると、これで出来たということが分かります。自分で台詞を書いたわけですけれども、それが本当に何を語っていたのかは、そうして出来た時に初めて分かるのです。何かが起きる。だから本当にその時には感動します。ある時、撮影をしていて果てしないテイクの最後にそのシーンが出来た時、そのシーンにあまりにも感動して初めてそのシーンを観たような気がしたものですから、これ以上のことはもう出来ないほど良いテイクだと分かってしまった。その後あまりにも感動して、あまりにも疲れてしまったので、10分間、この部屋のような所に閉じこもって休んだほどでした。そのようなものなのです。

もちろん映画は監督のコンクールではありませんけれども、まず私を感動させてくれるものでなければいけない。また、脚本を書いている時に、これは撮影よりももっと稀ですが、自分の書いたそのシーンに感動して書くのを止める、中断することもあります。それはフォークナーのある小説を読んでいた時のことです。1ページ1ページにあまりにも震え上がったので、1ページを読み、そこで休憩してまた次のページを、という風にしなければならなかった。恐ろしい体験ですけれども素晴らしい体験でした。理想的には毎回そうやってシーンが感動を与えるところまで到達することであって、例えば音楽的に聞いて今録ったテープがまあまあいいだろうとか、大体正しいであろうとか、そういう状態で止めてはいけないのだと思います。それは本当につまらないものになってしまう。自分が書いたものが信じられない、自分が撮影したものが信じられないようでは、誰も信じてくれませんから、全く利益のない、全く関心がないものが出来てしまいます。



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