OUTSIDE IN TOKYO
Jacques Doillon INTERVIEW

ジャック・ドワイヨン『ラブバトル』インタヴュー

3. 俳優との仕事が凄く上手くいった時、結果として出てくるのは、
 とても自由に即興でやっているのではないかと思わせるような演技です

1  |  2  |  3  |  4



OIT:台詞、演技に関して、何テイクも重ねているという印象を受けましたが、いかがでしょうか、また、即興をどの程度取り入れたのでしょうか?
ジャック・ドワイヨン:まず即興は全くありません、そして、台詞は全く変えていません。幾つか実際に撮影に入ってみて、繰り返しになっているところに気付いて、無くてもいいと消した部分はあります。台詞に顔がつくとそういうことが分かるので削除した部分はある。しかし、私が書いた脚本の95%以上は残っています。即興は一切しません。ただし即興を超えたところで俳優の演技がもたらすものがあるのです。例えば、アリアーヌ・ムヌーシュキンは「太陽劇団」で、自分の劇団の俳優を使ってテーマを与えて、そこで即興でやらせる、そうした作業を6ヵ月間ワークショップで繰り返して、その俳優との即興によって生み出された、良い部分を集めて作品を作ったりする。それはとてもいいやり方だと思いますが、私にはそんな時間がありません。だいたい3~6週間、4、5週間しか実際には時間がないわけです。例えば、俳優の中にある自由だとか、資質だとか、ファンタジーは、即興をしなくても、こちらの指示通りに動かすことで出てきます。演出で幾つかの指示をしますが、それを実際に解釈するのは俳優達です。それはまた“音楽”と同じようなことになります。音楽家の場合は後ろに演出家がいるわけではないけれども、私の出す指示は、例えば、そこはもう少しゆっくりとか、沈黙をもっと長くとか、ここで振り返ってとか、そういったことです。でも実際に解釈をするのは俳優達です。彼らのお陰でそのシーンに恩寵が訪れて感情的なものになるのです。

台詞を変えることを即興だと思っている人達がいますが、それは本当の自由ではないし、こちらが何ヵ月もかかって書いた台詞と、たった1、2時間で俳優が思いついた台詞と、どちらが良いのかは明らかです、自分が書いたものより良いものが出てくるとはとても思えません。台詞を変えるのは、どうしてもその俳優がその台詞が言えないとか、何らかの極めつけの困難があった時だけです。また、6分、8分、12分と続く長回しのワンシーン、ワンカットで撮っていますから、俳優にとっては随分大変なことです。やらなければいけないことがたくさんある、台詞だけではなく動きも覚えておいて、そのシーンをやらなければなりませんから、更にそこで即興をしろと言って困難を増すようなことをしたら俳優は溺れてしまいます、時間もありません。ですから台詞は書いたまま、脚本通り全く変えない。私は自分では演技が出来ないわけですから、演技をするのは俳優で、台詞を書くのは私、それぞれの仕事は決まっています。俳優との仕事が凄く上手くいった時、結果として出てくるのは、とても自由に即興でやっているのではないかと思わせるような演技です。台詞がはっきりと分かっていて、どこからどこへ、どういう状況に自分がいるのかを全て知り、よくマスター出来たら、そこで初めて俳優は自由な感じを出せるのではないでしょうか。それはファーストテイクではなくて、15番目のテイクで漸く出てくるようなものです。あたかも即興であるかのように見える、そういう状態にまで、もの凄く努力をして到達していかなければなりません。

OIT:今回の二人の演技は肉体のぶつかり合いというか、動物的にとても感じられたんですね。逆に前作『アナタの子供』(12)では、激しい言葉の応酬がありました。2つの作品に関連性はあるのでしょうか?
ジャック・ドワイヨン:『アナタの子供』から『ラブバトル』に至る流れですけれども、同じ映画を作っていてはいけませんので、逆をするとは言えませんが、繰り返して同じことを言わないように努力をしています。それからお互い人間達が殴り合うと、すぐ今では動物的だという風に言われてしまうけれども、三千年前、原始社会では人間は生き延びるために、食べる物を見つけるために、ああやって戦っていたのではないでしょうか。文明が進むにつれて肉体は段々と縮小し、今では肉体は殴ることとSEXをすることぐらいにしか役に立っていません。頭脳の方が随分重要になってしまっています。未来はこの後どうなるのか分かりません。来日をする直前、ちょっと体調が悪くなって東洋人のマッサージ師を訪ねました。その女性がああしなさい、こうしなさいという風に教えてくれるので、私はとてもそんなことは出来ないと言ったら、自分で自分にマッサージする方法を教えてあげる、その方が大切だと言ったんです。ヨーロッパではなるべく体は使わないように努力をする傾向があります。果たしてこの映画の男女はそれほど動物的でしょうか?動物的なのかもしれませんが、あくまでも人間の男女は自分の身体を使って遊んでいるというだけのことなのです。この点で男優のジェームズ・ティエレに出会ったのはとても幸運だったと思います。彼は運動選手のように身体を使う人で、舞台の演出もしているのですが、彼の持っている劇団の出し物はダンスとパントマイムとアクロバットとサーカスが混じったようなものです。そして、お祖父さんのチャップリンと同様、自分の身体が使える俳優なのです。こうやって一人、身体の使い方が分かっている人が入ってくれたことで、この作品を上手く前に進めることが出来たと思います。それから『アナタの子供』との違いですけれども、直接的に続きにはなっていないのは確かです。確かに他の作品と比べて『アナタの子供』と『ラブバトル』の間にはより大きい開きがあったかもしれません。けれどもそれはテーマの上でそうなったのであって『ラブバトル』の場合、二台のカメラを使って二人の人物に合わせてワンシーン、ワンショットで撮り、完全に振り付けが決まっています。一方の映画では身体が語る、もう一方の映画は身体が話すことしかしていないという風な区別の仕方があるでしょう。

←前ページ    1  |  2  |  3  |  4    次ページ→