OUTSIDE IN TOKYO
EMMANUELLE DEVOS & MARTIN PROVOST INTERVIEW

エマニュエル・デゥヴォス&マルタン・プロヴォ
『ヴィオレット ある作家の肖像』インタヴュー

3. 芸術家というのは、苦難とか試練に見舞われながらその中で創作をしていくものです

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OUTSIDE IN TOKYO(以降:OIT):監督は今回が初来日ということで、監督のキャリアについて簡単に教えて頂きたいと思います。最初は俳優からスタートされたということですが、監督をやるようになった転機みたいなものがあったのでしょうか?
マルタン・プロヴォ:元々、映画を撮るのが夢だったんですが、私は学校で勉強が出来なかったんですね。今はFEMISと名前が変わっていて、かつてはIDECという名前だった映画学校があるのですが、父親に「マルタン、お前そこには入れないよ」って言われて。勉強が出来ないから、しかたなく俳優になりました。でも最初から映画を撮りたいと思っていたんです。
OIT:私が拝見しているのは『セラフィーヌの庭』(08)と『ヴィオレット —ある作家の肖像—』(13)の二つなのですが、両方とも実在の人物を扱っています。お二人とも社会のアウトサイダー的な芸術家で、世の中ですぐに認められなかったというところが共通しているように思います。そういう芸術家を描きたいと思ったのは何故なのかを教えて頂けますか?
マルタン・プロヴォ:きっかけは、ラジオの仕事をしていた友人から、セラフィーヌ・ルイという画家がいるから是非調べてみなさいと言われたんです。なぜかと聞くと、調べれば分かるからとにかく調べてごらんと。それであの画家に出会ったのです。やはり人の意見は聞くものだなと強く思ったわけですが、そこで私のアプローチが完全に変わりました。それまでは、実在の人物を映画にするということは全く考えていなくて、常に自分の頭で考えたストーリーを書いていたんです。それから私自身の自伝的な小説を書いたのですが、その時の編集者がルネ・ド・セカッティという人で、彼がヴィオレット・ルデュックがセラフィーヌについて凄く素晴らしい文章を書いているから読んでみなさいと言って教えてくれたんですね。それで、『セラフィーヌの庭』を撮り終わった後に、すぐにまたルネ・ド・セカッティに会いにいって『ヴィオレット』を撮りますということを伝えて、共同執筆に加わってもらったわけです。

まず、セラフィーヌに関しては、絵を見た時にもの凄く強い印象を受けました、それから彼女の人生を知って更に魅力を感じたのです。この時代に女中さんという立場で自己表現をするということ自体、しかもアートを通じて自己表現をするということ自体が、もの凄く勇気のいることだったと思うのですが、その社会的タブーを乗り越えて作品を作り続けたということが素晴らしいと思ったんです。この作品も私が脚本を書いていますが、作品の世界に入り込んでいく内に、これは自分の物語でもあるとまでは言いませんけれども、やはり普遍性のある物語だと感じたわけです。つまり芸術家というのは、その苦難とか試練に見舞われながらその中で創作をしていくものである、それを乗り越えて作るからこそ、後世に残るようなものを作れるんだということがだんだんと分かってきたんです。

ヴィオレット・ルデュック自身も非常に貧しい家庭の出で、当時ではとてもこんな環境に生まれた人が作家として有名になるとは考えられなかったわけですが、そうした障壁を乗り越え、自己表現をして作品を残した、そこが一番惹かれた部分です。セラフィーヌはどちらかというと、信仰心に導かれて繊細な作品を残した人ですけれども、ヴィオレットの場合は時代の中に完全に入り込んで生きてきた人ですから、ある意味時代の証言者でもあるわけですね。自分ではそこまで意図はしていませんでしたけれども、その点も非常に興味深いと思いました。
OIT:演出についてお伺いしたいのですが、今、時代の中にいたっていうお話がありましたけれども、ドゥヴォスさんには、どのような演出をされたのでしょう?実在の人物ですから、ある程度映像や資料を参考にされたのか、その辺を教えて頂けますか?
マルタン・プロヴォ:まず、女優を選択した時点である程度の仕事が済んでいると思います。『ヴィオレット』の場合、エマニュエル・ドゥヴォスの外見は、ヴィオレット・ルデュックとは全く似ていないんです、でも何か共通点があるということを感じましたし、エマニュエルならこの人物を造形出来ると私は確信しました。ですから外見を似せるとか、真似るのではなくて、彼女自身が自分の持っているものでヴィオレット・ルデュックを体現する、そういうことが可能だと感じたんです。シモーヌ・ド・ボーヴォワールの役もそうですけれども、サンドリーヌ・キベルランという女優はエマニュエル・ドゥヴォスが紹介してくれたんです。彼女も外見的には全くボーヴォワールには似ていないんですね、でも(映画の中では)実際にボーヴォワールそのもののような存在です。

ですからそういった部分で女優の選択というのは非常に重要になってきます、もちろん付け鼻を付けたり、髪の色はどうだったかということも資料に基づいて造形していくわけですけれども、最終的には役者の内面が重要で、内面的にその人物に成り切ることが出来れば、それがまた観客にも伝わって信頼性のあるものになると思います。むしろ、あまりにも現実に拘り過ぎてぴったり同じにし過ぎると、それは単なるパフォーマンスを見せつけるみたいなことになってしまって、グロテスクだと思うんですね。人間というよりは動物園のような感じになってしまう。ですから準備は入念にするけれども、いざ演技をするということになったらもう自由に楽しんでくれという風に言いました。そうでないと形だけのものになってしまって、ちょっと的外れになってしまうと思います。


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