OUTSIDE IN TOKYO
Albert Serra INTERVIEW

アルベール・セラ『ルイ14世の死』インタヴュー

3. 映画自体が実は、ファンタジーを現実として存在させるやり方なのです

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OIT:今の医師達の場面で、マルセイユの偽医者が『愛の生理学』という本ではこういう風に言っているみたいなことを言う台詞がありますが、その本自体も監督の創作によるものですか?

アルベール・セラ:それは本当に存在する本です。『愛の生理学』という本が果たしてルイ14世に影響を与えたのかどうかは分かりませんが、実在する本であることは確かです。中世の医学書で、人間の体にある体液と気質のことを語っています。フランスのプロヴァンス地方、南東地方の人が書いた本です。そしてあそこで出されている引用は、恣意にとった引用ですけれども、適切な引用です。あの時にマルセイユの医者が『愛の生理学』という本を引用するのは、研究の別の伝統のラインがあるということを言っているんです。すなわち身体と精神の関係であって、単なるいわゆる当時の“医学”ではその身体と精神の関係の謎を解き明かすことが出来ません。別の研究のラインが存在していて、その際には体の中にある体液と気質の関係から始まって、より現実に近いところまで研究が進んでいるというのです。ただ単に身体に起きている現象だけを研究するのではそうしたことは解らないという、そういう意図であの話をしたのです。今日ではもちろん科学的なラインの方が勝利をしました、がんの治療などは医学として身体の現象だけを研究する方が勝ってしまいました。もはやお祈りだとか香油だとか、怪しげな飲み物だとか、そういったものは使わなくなってしまいました、それは中世のものです。今日、がん治療にはそうしたものは使われません。

OIT:今の引用された言葉の中で、「愛が発生する素因は瞳の間に残る残像だ」という言葉がありましたが、“映画”のことを言っている様に聞こえたんです。やはりジャン=ピエール・レオーが主演していることもあって、映画史というか、映画自体がこの映画の中の隠れたテーマの様に感じていたので、そういう風に思ったのですが、そういう意図はありましたか?

アルベール・セラ:確かにそうですね、映画自体がその様なものだと思います。あの言葉は目の中に固定されたイメージからくる、という言い方なんですけれども、確かに映画そのものは監督が愛を込めた視線で眺めた世界であって、そのイメージが固定されていると考えることが出来るでしょう。喩え悲しく紛争に満ちた世界を見ていたにしても、そこには愛を込めた監督の視線で描かれていますから、一つのマジックが働きます。その映画を作ることは監督の、例えば不倫の愛を芸術に持っていく、そうしたことになります。もちろんそれが不吉な形、陰惨な形をとることもあります。目の中に固定をされたイメージというメタファーを私はとても好きです。そこに液体をもたらして、固定されたイメージを動かさなければなりませんけれど、とても面白いと思うのは目の持っている力です。

現実を捉えて造形的に作っていく、そして言わば人生が持っている軽みの様なものを与えます。映画自体が実は、ファンタジーを現実として存在させるやり方なのではないでしょうか。つまり監督の頭に浮かんだファンタジーなのだけれども、それを現実に存在させる、それが映画の演出であって、一つの現実の世界に平行した別の世界を作り出すのです。この様に頭の中に浮かんできたファンタジーは、他の人には見えないものです。恋愛にしても同じで、目の中に固定されたイメージは、愛する存在のイメージなんだけれども他の人には見えないものなのです。その存在を本当にある様に形を与えていくこと、それが作家の仕事であり監督の仕事なのでしょう。こうやって一つの固定されたイメージがあって、その周りに生きた世界を作っていく、それが作家の仕事、監督の仕事です。同じような論理で働いています。愛と、こうした映画作りは同じかもしれない。愛する人のイメージが目の中に固定されている、監督の場合は目の中に自分が空想した世界が固定されている、それは実際に生きている人生と関わりのある世界です。

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