『おとうと』

上原輝樹
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21世紀の今、よもや、試写室のスクリーンで"寅さん"の姿を拝むことになるとは思いもしなかったが、その経験は嬉しいサプライズというよりは、日本の名匠といわれる監督の最新作をこれから体験するのだという身構えし過ぎたこちらの腰を砕くのに充分な通俗性に満ちていた。

映画は、その"寅さん"のカットや安保闘争の記録映像、高度経済成長期の大阪万博のニュース映像などのアーカイブ映像のインサートによって、本作の主人公吟子(吉永小百合)が生きてきた時代背景をさりげなく伝えながら開巻する。吉永小百合が演じるというだけで、この主人公の品行方正は既にお墨付きを得ているようなものだが、案の定、吟子は、堅実な暮らしを営む未亡人であり、愛情溢れる母親、そして、問題児の弟(笑福亭鶴瓶)を献身的にサポートする良き姉である。

その姉と対照的に、酒が入ると見境なく暴れ出す売れない大阪の芸人である弟、鉄朗の役を、これまた、その方面ではパブリックイメージ100%合致の芸人の中の芸人、笑福亭鶴瓶が演じる。つい先般『ディア・ドクター』で演じた偽医者の役を遥かに凌ぐ名演技が生まれたのも、至極当然のことかもしれない。喜劇役者のさり気ない芝居が、観客の涙を誘うのは、いつの時代も世の常だが、偽医者を演じた時でも、最も際立ったのは、映画の前半早々に現れた死にかけた老人をその腕で抱きしめるシーンだった。それ以降に感情的な盛り上がりを作り出せなかったのが、『ディア・ドクター』の弱いところだったが、それはまた別の話。

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本作『おとうと』前半のクライマックスは、吟子の最愛の一人娘小春(蒼井優)の結婚式のシーン。たまには弟の鉄朗に花をもたせてやろうという、吟子の亡き夫の配慮から、鉄朗に小春の名付け親を依頼したというエピソードがさり気なく盛り込まれているところに名匠の脚本術が生きているが、鉄朗がその大事な結婚式の場で大トラに変貌し、晴れの日の格式ばった一座を、悲喜劇の阿鼻叫喚の中に引きずり降ろしてしまう一連のシーンには、傑作時代劇『たそがれ清兵衛』(02)や『隠し剣 鬼の爪』(04)では、発揮しようもなかった松竹喜劇の笑いのDNAが炸裂し、泣き笑いが絡まった日本の伝統芸能的ハイブリットとも言うべき複雑な笑いを提供してくれる。単純に笑わせようと思えばそう出来るところで、そのようにせず、単純に泣かせることができるところでもそのようにしない、笑いと涙を、混ぜ合わせてしまうことで、より複雑な感情を呼び起こすことに成功している。

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後半になってやっと登場したかの印象の加瀬亮は、若き大工職人という役柄もあって、加瀬亮が演じた役歴の中でも最も精悍な好人物として記憶に残る役柄となるに違いない。そして、どこか悲劇的な様相を纏うこの若い卓越した演技者の登場と共に、物語も悲劇の様相を色濃く呈していくのは決して偶然ではないだろう。『おとうと』の後半は、一家のつま弾きもの鉄朗が、いよいよ深刻に姉の吟子に迷惑をかけ、その挙げ句の果てに病いに倒れ、大阪の民間ホスピス"みどりのいえ"で看取られていく悲壮感溢れる展開となるが、キャメラの後ろで現代という時代と格闘している名匠の姿までもが透けて見えてくるようで痛々しい。その痛々しい格闘の痕跡こそが、現代だと言い切ってしまっても良いのだが。

そして、何よりも『おとうと』が素晴らしいのは、吉永小百合が演じる聡明で美しい姉が、子どもの頃から出来の悪かった弟のことを、常に援助してきた積りでいながら、現実としては、いつでも踏みつけにし、ないがしろに扱ってきたのではないか?と亡き夫からかつて静かに問われたことを、鉄朗が病いに伏した今初めて心から理解してしまうという人間存在の残酷さと、その事に気付いた故の贖罪の意識を最後の最後で描いているところだ。だからこそ、吉永小百合のキャスティングがズシリと効いてくる。そんな映画のエッセンスを、絶妙なバランスで表現している松本春野のイラストも素晴らしく、このイラストを見ると、映画の哀しい余韻がいつでも甦ってくるかのよう。

最後に、『おとうと』の試写が終わった時、これほど多くの大人たちが無防備に涙を流してしまって良いのだろうか?と思う程、試写会場は涙に濡れていたのだということを報告しておく。かつて、淀川長治は、映画の涙には色々な種類の涙があると語った。泣こうとして流す涙、泣くまいと堪えながら、それでも堪えきれずに流れてしまう涙、涙は流れないが心で泣く映画、、、あなたの涙は、どのような涙だろうか?この映画を見て、笑って泣いて、そして、最後に少し考えてみてほしい。


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『おとうと』

1月30日(土)ロードショー

監督:山田洋次
脚本:山田洋次、平松恵美子
撮影:近森眞史
美術:出川三男
音楽:冨田勲
照明:渡邊孝一
編集:岩井巌
録音:岸田和美
衣装:松田和夫
装飾:高橋光
助監督:花輪金一
宣伝プロデューサー:因藤靖久、飯田桂介
製作主任:杉浦敬
ラインプロデューサー:斉藤朋彦
プロデューサー:深澤宏、山本一郎、田村健一
出演:吉永小百合、笑福亭鶴瓶、蒼井優、加瀬亮、小林稔侍、森本レオ、芽島成美、ラサール石井、佐藤蛾次郎、池乃めだか、田中壮太郎、キムラ緑子、笹野高史、小日向文世、横山あきお、近藤公園、石田ゆり子、加藤治子

2010年/日本/カラー/シネマスコープ/ドルビーデジタル/126分
制作・配給:松竹株式会社

(C) 2010 「おとうと」製作委員会

『おとうと』
オフィシャルサイト
http://www.ototo-movie.jp/




































































































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