『それでも恋するバルセロナ』

上原輝樹
woody_01.jpg

我らがウディ・アレンの新作、通算39作目の劇場公開監督作品『それでも恋するバルセロナ』は、スペインのバルセロナを舞台に、ハビエル・バルデム演じる怪しげな芸術家ファン・アントニオを巡って、3人の美女、ヴィッキー(レベッカ・ホール)、クリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)、マリア・エレーナ(ペネロペ・クルス)が恋の空騒ぎを繰り広げる、軽いタッチのロマンティック・コメディだが、自らの天賦の才能、"笑い"を犠牲にしてでも、バルセロナで大人の"恋"を描くというのが今回のアレンの決意のようだ。

ところで、本作の舞台となっているバルセロナは、観光名所が次々に登場する『ローマの休日』(1953)スタイルのハリウッド古典映画の"軽さ"を継承するかのようなテンポの良さで奇麗に切り取られていくばかりで、例えば、同じ外国人が描いた"バルセロナ"でも、イタリアのアントニオーニが『さすらいの二人』(1974)で見せてくれた濃厚な色香を放つバルセロナとはだいぶ趣きが違う。映画の進行を軽快なナレーションが支配する"軽さ"の中にあって、少しだけ異彩を放つ街オビエドは、確かに独特の美しさを放ってはいるものの、ブニュエルやエリセとは言わないまでも、アレハンドロ・アメナバールやペドロ・アルモドバルの映画からスペインという土地に染み付いた深い陰翳を想起する者にとっては、必然性を欠いた観光名所案内的な描写に若干物足りなさを感じてしまう。ニューヨーク時代、街を映画の主要キャラクターとして機能させてきたアレンだからこそ、余計に期待してしまうわけだが、本作のバルセロナは、あくまで3人の旬の女優が演じる"恋の空騒ぎ"の背景にお行儀良く収まっているように見える。

woody_02.jpg

それでは、肝心の女優たちはどうだろうか。レベッカ・ホール演じるヴィッキーには、明らかにアレンのインテリ的神経症と吃音口調が憑依してしまっている。アレンの映画で本人が出演していない場合、しばしばこの憑依が俳優陣に対して起きてきたことは誰もが認めるところだろう。最近では『メリンダとメリンダ』のウィル・フェレルの場合が顕著だったが、フェレル(『主人公は僕だった』『俺たちフィギュア・スケーター』)ほどの実力派コメディアンでもアレンキャラの物真似に見えてしまって、観る者の役柄への感情移入を阻害する。それはアレンの演出によるものなのか、役者本人がアレンを目前にしてそうなってしまうのかは知る術も無いのだが。レベッカ・ホールに関しては、元来、クイーンズイングリッシュを話すイギリス出身の彼女が、本作ではアメリカ人の観光客を演じるにあたって、アメリカ英語を意識し過ぎてしまった弊害があったのかもしれない。いずれにしても、彼女が、『フロスト×ニクソン』で魅せた、あのゴージャスなセクシーさは、本作のヴィッキーからは漂ってこない。

woody_03.jpg

そして、クリスティーナを演じるのは、ここ数年アレンの"ミューズ"と言われてきたスカーレット・ヨハンソン。4年前にロンドンで撮った『マッチ・ポイント』は、"偶然が人生を左右する"という何度もアレン映画の主題となってきたシニカルな哲学を見事に展開し切った傑作だったが、主役のジョナサン・リース・マイヤーズが、スカーレットに一目惚れするというシーンの彼女の尋常ならざる美しさは未だ忘れ難い。この映画で、明らかにアレンは、スカーレットに"恋"をしているように見えた。その翌年、アレンは、同じくロンドンで撮影した素人探偵コメディ『タロットカード殺人事件』で再びスカーレットと組むのだが、ここでのスカーレットへのアレンの"恋"心は、今にして思えば、一歩後退しているように見える。アレンの『マッチ・ポイント』で燃え上がった"恋"は、1年後には、あたかも劇中でヒュー・ジャックマンに敗れ去ったことが、現実の心情にも反映したかのように、恋愛の当事者から一歩身を引いた"恋人未満友達以上"の如き佇まいを装い、コメディアンの自嘲的な笑いで周囲を輝かせてみせる。その"芸"は、古き良きアレンの芸風そのものなのだが、どうにも唐突に思えるスカーレット・ヨハンソンのスクール水着風ルックを見せられるにつけ、アレンの"恋"心は恋愛当事者としては一歩大きく後退したものの、依然欲望の対象であり続けていて、その視線は、ほとんどフェティッシュとでもいうべきものに変質していると感じさせられる。"恋"が成就しないとき、その心性が"フェティッシュ"に向かうのは、男性女性に関わらず、現代社会ではごく普通に起きていることだが、そうなってしまった段階では恋愛の当事者感覚は薄れ、事態はファンタジー/妄想の様相を呈してくる。

日本未公開作『Cassandra's Dream』を間に挟み、アレンは本作で、三たびスカーレットと組むのだが、本作ではとうとう、気の置けない"友達"、もしくは、"同志"や"盟友"とでも言うべきポジションに自らを落ち着かせたようだ。過去数年間、スカーレットに向けられてきたアレンの熱い視線は、本作では明らかにペネロペ・クルスの方向に舵が切られている。アレンは、『マッチ・ポイント』でスカーレットを輝かせた時と同様、全てはゴードン・ウィリスから学んだという映画作りのマジックを総動員して、ペネロペを、美しく才能溢れるアーティストながらも、その情熱ゆえの激情を制御できない情緒不安定な女性として描き、アルモドバルが『ボルベール<帰郷>』で見せてくれたペネロペの爆発的な魅力を、改めて再確認させてくれる。これもアレンの"恋"心の成せる技だろうか。『それでも恋する』のは、ヴィッキーでもクリスティーナでもなく、ペネロペに恋心を抱いたウディ・アレン本人のファンタジックな話なのだと思えば、この映画を支配する幾分浮かれた異郷でのラブストーリーの荒唐無稽さにも合点がゆく。

woody_04.jpg

1977年の『アニー・ホール』以来、自らが忌わしい"スキャンダル"に見舞われようが、NYでテロが起きようが、ブッシュ大統領が再選されようが、ほぼ毎年1作のペースで映画を作り続けてきた"屈強の映画作家"ウディ・アレンの新作『それでも恋するバルセロナ』は、電撃的な新しい"恋"ペネロペ・クルスと"盟友"スカーレット・ヨハンソンに捧げられた"女優の映画"だと言えるだろう。この多作な映画作家の妄想で彩られた必ずしも傑作とは言えないかもしれないひとつの映画が、スペインの素晴らしい女優にアカデミー助演女優賞という大きな喜びをもたらした。それはとても祝福すべき出来事には違いないが、天賦の才である"笑い"を封印してまで"恋"の物語にこだわったアレンの映画作家としての矜持も同等に賞賛されるべきだ。アレンのギャグに対する自制がなければ、「成就しない恋だけがロマンティック」などという歯の浮くような名セリフが会話の中でサラリと交わされるファンタジーも醸成されえなかっただろうから。自らの天才に満足しない映画作家、ウディ・アレンの挑戦は、まだまだこの先も続きそうだ。


『それでも恋するバルセロナ』について、皆様のご意見・ご感想をお待ちしております。
なお、ご投稿頂いたものを掲載するか否かの判断については、
OUTSIDE IN TOKYO 編集部の判断に一任頂きますので、ご了承ください。





Comment(0)

『それでも恋するバルセロナ』
Vicky Cristina Barcelona

6月27日(土)丸の内ピカデリーほか全国ロードショー

脚本/監督:ウディ・アレン
製作:レッティ・アロンソン、ギャレス・ワイリー、スティーヴン・テネンバウム
撮影:ハビエル・アギーレサロベ
美術:アラン・バネ
編集:アリサ・レプセルター
衣装:ソニア・グランデ
キャスティング:ジュリエット・テイラー、パトリシア・ディセルト
出演:スカーレット・ヨハンソン、ハビエル・バルデム、ペネロペ・クルス、レベッカ・ホール、パトリシア・クラークソン、ケヴィン・ダン、クリス・メッシーナ
ナレーター:クリストファー・エヴァン・ウェルチ

2008年アメリカ=スペイン/カラー/1時間36分/ヴィスタサイズ/ドルビーデジタル
配給:アスミック・エース
後援:スペイン大使館
© 2008 Gravier Productions,Inc. and Media Productions,SL.

『それでも恋するバルセロナ』
オフィシャルサイト
http://sore-koi.asmik-ace.co.jp/
印刷