『タリウム少女の毒殺日記』

01.jpg

覚醒を促す
アウトローの色、
ネオンカラーが青春のように輝くとき
star.gifstar.gifstar.gifstar.gif 上原輝樹

『タリウム少女の毒殺日記』は、金魚やカエル、ヒヨコといった小動物、犬、そして人間(ヒト)の生態をiPhoneを通じて観察する少女の生態が、土屋豊監督のキャメラを通じて観察されてゆく、観察のメタ構造によって成り立っているフィクションである。観察されるぞれぞれの素材には、メインストーリーである"タリウム少女"の物語という実際に起きた事件に基づいたフィクションと、脂肪吸引手術を行なう美容外科やクローン技術研究者、肉体改造アーティストや様々なイシューに対する"街の声"といった実在する人々のドキュメント映像が混在しているにも関わらず、映画全体の大筋は極めてわかりやすい。"タリウム少女"を擁護するのだという、土屋豊監督の感情の綾が、この複雑に構成された作品のバックボーンを太く貫いているからだ。

倉持由香が演じる"タリウム少女"は、スマホ(=スマートフォン)を通して世界を認識する。現実と彼女の間には"スマホ"という"膜"が存在している。事実、スマホとは、電話機というよりは、小型のコンピュータ端末であり、レンズやマイクを通して得られた映像や音声は、スマホ内でデータ化、数値化されて保存されることで初めて、その後、youtubeやニコ動といったネット空間に配信可能なものとなる。今や、スマホは、私たちの脳の延長線上にある外部記憶装置のような存在になりはじめている。"タリウム少女"の思考は、律儀にデータ化、数値化のプロセスをなぞるように、現実そのものではなく、データ化された映像、その背後でそうした表象を生成しているアルゴリズムやコードこそが全てを動かしていると認識しているかのようだ。そこには、"全てはプログラムされているのではないか?"という問い掛けがある。(奇しくも、この問い掛けは、『ロマン・ポランスキー 初めての告白』(12)の最後の最後で、ロマン・ポランスキー自らの口から語られる言葉でもある。)

02.jpg

彼女が、そうした一種特殊な世界認識の方法を持つ背景として、彼女がアスペルガー症候群の診断を受けていること、その事とは無関係ではなく、いじめの被害に遭っていることが描かれてゆく。いじめられる自分という現実から逃避するために、彼女は現実と自分との間に"膜"を作り、それによって何人にも侵されない自分の王国をそこに創り出すこと。土屋豊監督は、そこに"フィクション"の誕生を見たのかもしれない。"タリウム少女"は、母親にタリウムを投与して、その経過を観察する。彼女に明白な殺意があるかどうかは定かではないが、彼女が"いじめ"によって疎外されていたことが、そうした行動を起こすひとつの要因として描かれていることは、本作の編集を見る限り、否定することは難しい。タリウムを盛られる、渡辺真起子が快演している母親は、"脂肪吸引"によるダイエットを考えている。キャメラは、施術を行なう美容外科に渡辺真紀子と共に入り込み、医師から脂肪吸引手術の手順をヒアリングする様を見事に隠しカメラの映像に捉えた、かのような雰囲気の映像で、脂肪吸引ビジネスの不気味を伝える。そして、人々の倫理観を問うこの主題は、本作において、驚くべき広がりを以て、フィクションの殻を突き抜けてゆく。

脂肪吸引ビジネスという吐き気がするほど表層的かつ虚栄心に蝕まれたかに見えるテーマは、"肉体改造アーティスト"takahashiや蛍光物質を作る遺伝子が埋め込まれた"GFP BUNNY"といった先鋭的な異端と並置されることで、思わぬ拡がりを見せてゆく。現状の社会に居心地の良さを感じない種こそが"進化"を遂げてゆくという、あの進化論がここでも顔を覗かせる。しかも進化する主体は技術のみならず"人間"それ自体である、という"新しい人間観"というフィクションが示されているのだ。ちなみに、"GFP BUNNY"とは、ブラジル出身のアーティスト、エドワルド・カッツによるクラゲの蛍光物質を作る遺伝子を埋め込まれて生まれた、暗闇で緑色に光るウサギ、2000年に発表された遺伝子組み換え作品「アルバ」を直接的に参照している。エドワルド・カッツは、それに先んじる1997年に、自分の足首にマイクロチップを埋め込んだ「タイムカプセル」という作品で世間を騒がせており、それ以来、最も先鋭的なバイオテクノロジーを用いたアーティストとして知られるようになった。(森美術館「医学と芸術展」カタログを参照)

03.jpg

遺伝子組み換え生物である"GFP BUNNY"のエピソードが、"クローン技術"の是非を問う議論へと繋がってゆくのは、むしろ自然な流れと言うべきだろう。クローン技術の研究者は、「クローン人間技術を証明できれば、神を否定できる。そうすれば、宗教戦争を否定出来る。また、人間が欲しいもの全てを手に入れることが出来るようになれば、経済戦争を無くすことが出来る。」と語る。土屋監督はそれに対して「という、宗教ですか?」とアフレコでツッコミを入れている。この作品で批判に晒されるのは、「人間は生まれながらにして自由なんだ」とか「人間の尊厳は決して冒してはいけない」などと、"タリウム少女"の現実の生活においてとっくに崩壊している紋切り型を世界の真理であるかのように語る高校教師(古舘寛治が好演)であったり、「クローン技術は世界の貧困を解決する」と真顔で語るクローン技術研究者であったり、"タリウム少女"の存在自体を規定する管理社会そのものであるだろう。そうした文明批判の数々は、本作の実験的ポップなルックが警告する表層的なこけ脅し感を気持ちよく裏切って一々正鵠を得ているように思え、そのギャップも本作の魅力のひとつと言える。

つまり、この映画には、ある種の"進化"に対して危惧を抱いている、至極真っ当な視点を保つ監督の"理性"と"新しい人間"に進化する"タリウム少女"というフィクションに惹かれる監督の"欲望"という、2方向のベクトルの視座が並走しており、観察する主体である土屋豊監督はその両者の間で引き裂かれている。私たちが観ているのは、理性と欲望との間で引き裂かれてゆく映画監督のドキュメントなのかもしれない。ついに、"タリウム少女"は、"新しい実験"の開始を宣言する。「人間は放っておいたら、このまま進化しませんよ。」少女は、高校教師にツバを吐きかけ、彼女をいじめた少女たちの頭をハタき、颯爽とした笑顔で街へ出てゆく。"新しい人間"になるべくチップを身体に埋め込み、"肉体改造アーティスト"takahashiと共に虚構の世界の彼方へと少女が飛翔していくエンディングを彩るネオンカラーは、ハーモニー・コリンの『スプリング・ブレイカーズ』(12)とともに、2010年代の虚構におけるアウトローを象徴するカラーとして観るものを覚醒させる。

04.jpg


『タリウム少女の毒殺日記』について、皆様のご意見・ご感想をお待ちしております。
なお、ご投稿頂いたものを掲載するか否かの判断については、
OUTSIDE IN TOKYO 編集部の判断に一任頂きますので、ご了承ください。





Comment(0)

『タリウム少女の毒殺日記』

7月6日(土)より、渋谷アップリンクほか全国順次公開
 
監督・脚本・編集:土屋 豊
撮影監督:飯塚 諒
録音:田原 勲
制作:太田信吾、岩淵弘樹
衣装:KUMI
メイク:花井麻衣
整音:新垣一平
CG:森 宥綺
助監督:大橋麻実
チーフ助監督:江田剛士
出演:倉持由香、渡辺真起子、古舘寛治、Takahashi

© W-TV OFFICE

2012年/日本/82分/カラー/HD
配給:アップリンク

『タリウム少女の毒殺日記』
オフィシャルサイト
http://www.uplink.co.jp/thallium/
印刷