『キャロル』

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視線が交錯することの奇跡、
恋人たちは、何度となく"初めての出会い"を経験する
上原輝樹

1948年、クリスマスシーズンにニューヨークのブルーミングデールズで売り子をしていたパトリシア・ハイスミスは、売り場を訪れた毛皮のコートを纏ったブロンド女性に魅せられ、その1年後の1949年、彼女をモデルにした小説を書き上げる。小説が最初に出版された1950年代のアメリカが、"赤狩り"の嵐が吹き荒れ、リベラルな価値観を抑圧するパラノイアが蔓延した時代であり、同性愛は精神病であるとすら見なされていたことは、トッド・ヘインズ監督2002年の作品『エデンより彼方に』において人種問題と共に詳らかに描写されているが、本作『キャロル』においては、アイゼンハワー大統領のスピーチや"Cold War"といった生々しい言葉を伝えるラジオの音声、キャロルの行動を巡る、夫ハージ(カイル・チャンドラー)の家族の振る舞いの中に、抑制を効かせながらも、したたかに織り込まれている。

フィルム・ノワールという例外を除けば、一般的には"古き良き時代"のイメージで語られることの多かったアメリカの戦後50年代の"暗さ"を背景に描いているという点で、『キャロル』は、消費社会の牽引役となっていく"デパート"が象徴的に登場し、ジョー・スタッフォードの「No Ohter Love」が重要なシーンで使われ、時代の質感をリクリエイトするためにフィルムで撮影されているという点においても、PTAの『ザ・マスター』(12)とは地続きの映画であると言うことができるかもしれない。(『ザ・マスター』には、デパートの売り子がミンクのコートを館内で売り歩くシーンがあるが、本作でキャロルが纏っているのも、同種のコートで、『ザ・マスター』では4999ドルという値付けがされていた。)

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映画は、地下鉄の排気口を捉えたショットから始まる。カメラは徐々に目線を上げていき地下鉄の駅から出てくる仕事帰りの通勤者たちの一団を捉える、その中の一人、"ジャック"を追うカメラは、彼がリッツホテルの建物に入るのを見届けると、さらに視点を上げて、建物の二階外観を捉える。そこで画面は、ホテルの内部、階段を駆け上がるジャックへとカットする。ラウンジのバーでウィスキーを注文し、周囲を見渡したジャックは、エレガントな女性と相対してテーブルにつき、こちら側に背を向けて座っている友人テレーズ(ルーニー・マーラ)を見つけ、彼女の名を大声で呼ぶ。ふたりの親密な時間を遮られたテレーズはそれでも気丈に、年上の美しい女性キャロル(ケイト・ブランシェット)をジャックに紹介する。ジャックと極めて自然なマナーで自己紹介を終えたキャロルは、ジャックのパーティーへの誘いにテレーズが応じるのを促し、テレーズがそれを受け入れると、わたしも(別の約束、プラザ・ホテルのオークルームでの会食へ)行くわと言って席を立ち、テレーズの肩にそっと手を添え、別れを告げてその場を去っていく。

この予期せぬ闖入者が、ふたりの間に割り込んで親密な時間を終わらせる、という映画の始まりは、原作小説の大胆かつ繊細な翻案である、フィリス・ナジーの脚本の段階から既に構想されているとはいえ、その描写の仕方は、監督のヘインズがすでに公言している通り、デヴィッド・リーン『逢いびき』(45)の冒頭のシークエンスを丸ごと頂戴している。『逢いびき』における、お喋りな夫人の登場から、去り行くトレヴァー・ハワードがセリア・ジョンソンの肩に手を添えるショット、そして、セリア・ジョンソンが、過去を回想する形で、ふたりの出会いが語られていくナラティブの枠組みまで、そっくりそのまま拝借するという、トッド・ヘインズによる映画的戯れが冴えをみせる。

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加えて、冒頭のシーンおける、クレーン撮影によるカメラの動きに注目したい。地下鉄の排気口を捉えていたカメラは、地下から徐々に高度を上げて行き、ホテル二階の高さまで上昇したところで止まると、そこにはキャロルとテレーズが相対して座っている、ホテルのラウンジがある。この上昇、もしくは、下降の上下運動は、トッド・ヘインズの映画において繰り返し変奏されてきた語りの手法である。「スペース・オディティ」と「ジギー・スターダスト」で一躍名を馳せた"地球に落ちて来た男"デヴィッド・ボウイをモデルにした『ヴェルヴェット・ゴールドマイン』(98)は、まさにグラム・ロックの興亡、上昇と下降、そのものの物語であったし、『エデンより彼方に』(02)においては、クレーン撮影による上からの俯瞰ショットが繰り返し使われ、メロドラマならではの急転直下の物語の起伏を、明確なアウトラインとして示すための適切な距離を観客との間に創り出している。さらには、そうした高みからの視点が、人間の俗世を超越した、どこか天上的な世界が存在するという"感覚"、つまりは、"神の視点"を、映画の中に導入していたことも想起される。本作の場合、興味深いのは、このカメラの運動が、下から上へ上昇していく、"希望"の物語を語ろうとしていることを早くも冒頭においてさり気なく予告していると同時に、後に発せられることになる映画史に残る素晴らしい台詞が、この上昇運動と先に触れた回想構造のナラティブによって、映画の中を循環しているように感ぜられることだ。

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『キャロル』におけるテレーズの回想は、本稿の冒頭でも触れた通り、ハイスミスが実際に体験した"デパートでのキャロルとの出会い"に触発されて生まれたシーンから始まる。ハイスミスの原作小説では、そのシーンは以下のように描写されている(※1)。

「ふたりは同時に目を合わせた。テレーズは開けていた箱からふと顔を上げ、女性はテレーズのほうに頭を巡らせたので、まともにお互いの目をのぞきこむことになった。すらりとした背の高いブロンドの女性が、ゆったりとした毛皮のコートを優雅にまとい、コートの前を開けてウエストに片手をあてている。瞳はほとんど透明といっていいほどの薄いグレーだが、それでいて光や炎のように強烈な印象を与える。テレーズはその瞳にとらわれて目をそらすことができずにいた。」

小説では「ふたりの視線が出会ったのは、ほぼ同時だった」とあるが、映画では、売り場で列車のミニチュアセットに興味を示して見ているキャロルを、テレーズが見つけて、彼女の佇まいに目を奪われる、つまり、最初にテレーズがキャロルを見つける、という描写がなされている。黒沢清は、かつて蓮實重彦が教壇で語った「映画では、見詰め合った瞳を撮ることはできない」という言葉に動揺し、この「見詰め合う瞳」を撮ること、このことを克服することこそがプロの仕事なのだ、と自分に言い聞かせて現場に向かったと記したが(「現代アメリカ映画講義」黒沢清+蓮實重彦)、原作小説では、その視線の交錯は"ほぼ同時"に起こったとまで書かれており、脚本家のフィリス・ナジー、監督のトッド・ヘインズともに、さすがにこれを"映画的に"行うことは不可能だと直観したに違いない。それでも「このことを克服することこそがプロの仕事」なのであり、キャロルとテレーズのふたりが「自分がなるべく人間になるためにはお互いを必要としている」(※2)限り、その"不可能"は克服され、ふたりの視線が交錯する出会いの"奇跡"は起きなければならない。だからこそ、ヘインズは、ふたりの出会いを決定的に印象付ける映画的強度を生み出すための、視線の交わりのありとあらゆる変奏を『キャロル』において試みている。

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もっとも、トッド・ヘインズの映画における、そうした試みは、今に始まったことではなく、例えば、『ベルベット・ゴールドマイン』(98)でも、視線の交錯が起こす"奇跡"は探求されていた。『ベルベット・ゴールドマイン』(98)は、デヴィッド・ボウイをモデルにしたグラムロックのミュージシャン、ブライアン・スレイド(ジョナサン・リース・マイヤーズ)に対して憧憬を抱き、スレイドに"♡"ビームを送り続ける、ヘインズ監督をモデルにしたアーサー(クリスチャン・ベイル)の物語だが、この"スター"への一方通行の恋は結局実らず、そのフェティッシュなオルタナティブとして、ルー・リードとイギー・ポップを合体させたキャラクターであるロックンロールアニマル、カート・ワイルド(ユアン・マクレガー)と、アーサーは一夜を共にすることになる。その時、この二人が結ばれた理由はただひとつ、それは"互いの視線が交錯した"からである。"愛の人工衛星(「サテライト・オブ・ラブ」)"が夜空にキラキラと浮かぶ、"幻想的な"屋上のシーンで、アーサーは、カートを見詰める、アーサーの視線に気付いたカートは、少し躊躇うアーサーを、こっちへ来い、と招き寄せ、やがてふたりは抱擁を交わす。この、アーサーが、同一空間の中で最も遠い対角線上の位置にいるカートを見つめ、移動撮影による切り返しで徐々に距離を縮めていくことで生じる視線の交錯は、まるで『キャロル』におけるテレーズとキャロル、ふたりの視線の交錯の予行演習だったかのように、画面内における人物の動きが相似形を成している。

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ここで少し、フィリス・ナジーの脚本(※3)について触れておきたい。小説では、"管理社会"の完成形のようなデパートという職場の醜悪さが悪夢的な筆致で描かれ、その犠牲者の権化のような年配店員の女性キャラクター"ミセス・ロビチェク"が、テレーズ自らの悪夢的将来像として造形されている。彼女は、フィリス・ナジーの脚本の中では生き延びているが、映画『キャロル』には、それと分る形では出演するに至っていない。 そのように、フィリス・ナジーの脚本には、小説で描かれた人物が多く原作から引き継がれているのだが、中には映画『キャロル』の世界観にそぐわないと思われるシーンも構想されていた。それは例えば、テレーズと恋人リチャード(ジェイク・レイシー)との、赤裸裸なベッドシーンだ。テレーズのアパートメント、ベッドの上でふたりは抱擁を交わしている、テレーズは洋服を着たままだが、リチャードはタンクトップとボクサーショーツという出で立ち、テレーズは、リチャードに乞われるままに、リチャードのショーツの中に手を入れ、"ハンドジョブ"を行う、、、。

このシーンが伝えるのは、"何に対してもイエスと言ってしまう"テレーズが、リチャードに乞われるままに性的な行為に及ぶが、それよってリチャードと心が繋がるどころか、むしろ、傍観者として、ふたりの行為を観察している自分を発見する、リチャードとの"距離"を感じる場面として描かれている。そして、テレーズは、キャロルが忘れていった(置いていった)"手袋"を、キャロルの自宅宛に投函することを決意する、という流れを描写することでテレーズの心の動きを"説明"している。確かに、そう"考えれば"存在しても不思議はないシーンだが、映画『キャロル』で、このシーンが演じられることを想像するのは難しい。つまり、小説、脚本、映画には、それぞれの"ゲームの規則"が存在し、それぞれの世界観を形作っている。ハイスミスの原作小説においては、小説の神が必要とする限りのすべてが描写されているが、脚本、映画、と変容を遂げていくうちに、作品の"抽象度"は増していき、説明的な要素は排除されていく。ここには、小説を映画化した場合の、ひとつの理想型があるのではないだろうか。

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"キャロル"に取り憑いた/取り憑かれたハイスミス=テレーズの視点から出発した原作小説は、キャロルへの思慕を通じて、新しい世界へと足を踏み入れ、自らも成長を遂げていくテレーズの物語が描かれていくが、脚本の段階で、テレーズのキャリアは、"舞台美術家の卵"から"カメラマンの卵"へと翻案されている。この翻案は、テレーズが、恋しいひと、キャロルを見つめる"フレーム"の発見を通して、自らのアイデンティティを確立していく成長プロセスを見事に物語の中に組み込むだけではなく、トッド・ヘインズが作った映画のためのルックブックの中に、ソール・ライターやエルンスト・ハースといった巨匠のスチル作品と共に使われた、NYの街や人々の表情をフレームに収めたヴィヴィアン・マイヤーやリゼット・モデル、ルース・オーキンといった、当時マージナルな存在だった女性フォトグラファーのイメージと存在論的に共鳴することで、テレーズという女性が体現しうる個性や美的感覚と、映画のルックの十全な統一感を作品に齎すことに貢献している。

トッド・ヘインズが、美術のジュディ・ベッカー、ニュー・ジャーマン・シネマ仕込みのアメリカ人撮影監督エド・ラックマンととも、21世紀の現代社会における不安とも呼応する、第二次大戦後の消費社会の"陰影"とアイゼンハワー時代の冷戦の疑心暗鬼の"暗さ"に支配されたニューヨークのリクリエイションを試みた『キャロル』のルックは、ヘインズが、同じ50年代のアメリカ、郊外の"完璧からはほど遠い世界"を描いた『エデンより彼方に』(02)において再現された、人工的な照明の下にグロテスクなまでに強調されたテクニカラーの華美なルックとは好対称を成している。『エデンより彼方に』の50年代的"華やかさ"を纏ったルックの下で描かれるのは"悲恋"だったが、『キャロル』の50年代的"暗さ"を纏ったルックの下で描かれるのは"希望"である、そこに生じるコントラストが、レスリー・シャーツの秀逸なサウンドデザイン(車中の夢見心地な会話や「No Other Love」がかかるシーンのくぐもった音響の素晴らしさ!)と、人物に寄り添うカーター・バーウェルのオリジナルスコアと相俟って、登場人物の感情のうねりを豊かに際立たせる。そして、雨に濡れた車窓やダイナー、アパートメント、オフィスの窓、店のショーウインドウ、ありとあらゆる透明な遮断物と光の反射によって、登場人物と隔てられ、明快なイメージを得ることを遮られる観客は、テレーズとキャロルの間に存在する、見えない"恋の障壁"と共鳴して、恋するふたりへの感情移入を加速していく。

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『キャロル』においては、こうしたすべての美術、音楽、衣装といった映画を構成する複雑な要素が、トッド・ヘインズ監督の演出の下、ふたりの出会いのシーンの成立に奉仕している。デパートでの初めての出会いのシーンに次いで、ふたりが出会うのは、お互いに初めて自分の名前(テレーズ・ベリベットとキャロル・エアード)を名乗るレストランのシーンだ。ブラウンの調度品に囲まれたスモーキーな空間の中で、キャロルがテレーズを見つめる、あの表情、年上で経験豊富なキャロルから見れば、テレーズのイノセンスは、ほとんど畏怖の対象ではなかったか?純粋で若く美しいひと、テレーズを手に入れたいと欲望するが、離婚係争中の夫と、その夫との間に授かった、最愛の一人娘を持つ私に、一体何が出来るのだろう?そんな晦渋が心の中に渦巻くことを感じながら、それでも、私の家の周囲は自然に囲まれているの、日曜日は暇にしているから、あなたも遊びにいらっしゃい、と精一杯のさり気なさを装って、テレーズを誘う、その瞬間にケイト・ブランシェットの見せる表情の素晴らしさ、そして、あの畢竟美しい「テレーズ、あなたは不思議な女の子」「まるで、天から落ちてきたよう」という、映画史に残るであろう名台詞!

見るたびに魅力を増していく、テレーズを演じるルーニー・マーラの抑制された演技、彼女がキャロルを最初に見つけた瞬間の視線、キャロルにここで煙草は吸えません、と注意をして、買物は私を緊張させるの、というキャロルに応えて、販売員をやっているわたしも緊張します、というやりとりの初々しさ、あるいはまた、レストランで、わたしはランチのメニューさえ決められない、と俯いた時に見せる、はにかんだ表情、そして、リッツホテルのラウンジカフェで生まれ変わったように毅然とした態度でキャロルに臨む時の凛とした佇まい、、、ルーニー・マーラが見せてくれた幾多の表情が、その時に味わった豊かな感情の記憶とともに甦る。

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キャロルがハンドルを握って、郊外の邸宅へドライブをする車の中のふたり、旅に出て、長いドライブの果てに宿泊したモーテルの一室での初めての夜、、、そうして、恋人たちは、何度も"初めての出会い"を経験する。そこで観客は、その時に沸き起こる筆舌に尽くし難い複雑な感情の高まりを、まさに"体験"する。これはしかし、"疑似体験"ではなく、紛れもない"体験"であるということをここでは主張しておく。そうした感情を体験せしめることこそが、映画の力能だからだ。映画は、そこに存在し、体験も同様に存在する。それは丁度、テレーズとリチャード、フィル、ニューヨークタイムスで働くシネフィルのダニー(ジョン・マガロ)の4人が、『サンセット大通り』(50)を映写室から眺めた後に、ビレッジのバーでビール飲むシーンで語られた会話のように。「仕事なんか、幻想さ」「そうかな?それじゃあ、仕事をして稼いだお金も幻想ってこと?」映画は現実に働きかける力を持っている。それが、映画の素晴らしさであり、同時に恐ろしいところでもある。しかし、その恐ろしさの中へ飛び込んでいく勇気を奮い起こさなければ、視線が交錯する"奇跡"が生じることなど、望むべくもない。

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Comment(1)

Posted by PineWood | 2017.05.17

に続いて1950年代の理想のアメリカン-イラストレーションを再現した様な作品スタイル。クリスマス-イブの売場の賑わいのドキュメントの中に立ち現れるセレブな夫人への憧憬と視線の交錯と見詰め合う一瞬の呼吸は映画の醍醐味なのかも知れない…。ソール-ライター、ロバート-フランク等のフォトグラフィーを意識した画面作りとクレーンでの移動撮影の流麗なカメラワーク、メロドラマの名篇を再現し構築していく妙技…。天使の降臨の如き美く描かれる二人の交差。其はスピルバーグ監督が絶賛したフランス映画での二人の執拗な迄に繰り返される濡れ場と対照をなしていたー。失恋の傷みがヒロインの心をもたらす成長譚と言う点では共通性が有ったが。レビューから簡潔な本編を観て原作に含まれる豊穣さが想像させられた…。

『キャロル』
英題:CAROL

2月11日(祝・木)全国ロードショー
 
監督:トッド・ヘインズ
原作:パトリシア・ハイスミス
脚本:フィリス・ナジー
撮影:エド・ラックマン
製作:エリザベス・カールセン
衣装:サンディ・パウエル
美術監督:ジュディ・ベッカー
音楽:カーター・バーウェル
音楽監修:ランドール・ポスター
出演:ケイト・ブランシェット、ルーニー・マーラ、サラ・ポールソン、カイル・チャンドラー、ジェイク・レイシー 

© NUMBER 9 FILMS(CAROL)LIMITED / CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION 2014 ALL RIGHTS RESERVED

2015年/イギリス・アメリカ・フランス/118分/カラー
配給:ファントム・フィルム 

『キャロル』
オフィシャルサイト
http://carol-movie.com

































































































































































































(※1)「キャロル」パトリシア・ハイスミス
柿沼瑛子訳 河出文庫 河出書房新社































(※2)アルノー・デプレシャンの『あの頃エッフェル塔の下で』についての発言より引用
「NOBODY」issue44 winter 2016 掲載
「アルノー・デプレシャン 弱さへと至るための強さ」























































































(※3)Phyllis Nagyによる脚本
http://thefilmstage.com/news/
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