『光のほうへ』

上原輝樹
thomas_01.jpg

白い光に包まれたベッドの上で、母親ではなく、まだあどけなさが残る顔立ちの二人の少年が、生後数ヶ月と思われる赤ん坊を愛しげにあやしている。やがて三人兄弟であることがわかる彼らの仲睦まじさは、全ての赤ん坊が、この世に生まれ落ちて来たことを祝福する周囲の愛情に浴する幸運に恵まれてほしいと、多くの者が願わずにはいられない、その願いを裏切らないオープニングシークエンスを鮮やかな光で満たしているが、かつて"ドグマ"を提唱しストイックな映画作りを自らに課して来たトマス・ヴィンダーベア監督の盟友がラース・フォン・トリアーだったことなどを連想すると、このまま素直に赤ん坊が光に包まれているはずもない、などと余計な詮索をする間もなく、その真っ白な赤ん坊をあやす兄ニックの指先の汚れを捉えるクローズアップショットに目を奪われる。

thomas_02.jpg

やがて画面は暗転し、アル中の母親が帰宅する。母親は、ニックに酒を隠した疑いを立て、すぐに激昂したかと思うと、平手でニックの横っ面を強かに打ち付ける。頬を打たれたニックは、もう慣れているのだろう、特別動揺した素振りも見せないが、酒で足元がふらついてる母親は、自ら振るった平手の勢いでもんどりうって腰から倒れてしまう。殴られた者ではなく、殴る者の心の崩壊を通じて、倒錯的に伝わってくるニックの心の痛みが、倒れたまま失禁をしてしまった母親に対して電気コードを用いて電気ショックを与え、母親を正気に戻すという荒療治を通じて、観るものの胸を締めつける。

そんな母親を持った二人の兄弟は、それでも、生まれたばかりの赤ん坊を可愛がらずにはいられない。しかし、荒廃した生活環境の中で、彼らの仲睦まじい触れ合いが天然自然の光を放つのはほんの束の間のことだった。ある日、兄弟は、アパートメントの隣の部屋でロックを大音量でかけながら、ビールを飲み憂さ晴らしをした後、そのまま寝入ってしまう、朝になって起きたニックが、隣の部屋の赤ん坊を見に行くと、赤ん坊はもう冷たくなっていて息することをやめていた。兄弟を包んでいた光はあっという間に消えていき、映画は、光を失った、その後の彼らの人生を追っていく。

thomas_03.jpg

成人した兄のニックは、コペンハーゲンの臨時宿泊施設で暮らしている。身体は鍛え上げられているが、彼が食事をするシーンはなく、ただひたすらアルコールを摂取するばかり、働いている様子もない。彼を慕う女性(ソフィー)はいるが、別れた最愛の女性アナのことをまだ忘れることができないニックは彼女に心を開くことができない。少年の頃にまだ赤ん坊であった末弟を死なせてしまった心の傷は今も彼の胸に暗く巣食っている。そんな孤独な気配に支配されているニックだが、街で若者に殴られ舗道に倒れている友人(アナの兄イヴァン)を見かけると、「いつから道端で殴られるような人間になったんだ?」と声を掛け、友人の話に耳を傾ける優しさを見せる。このニックを演じるヤコブ・セーダーグレンが、屈強な身体に不条理な境遇への苛立ちを漲らせ、時に怒りを爆発させながらも、常に自制を心がける、そして、持って生まれた"善良さ"を時に垣間見せる、そんな挑戦しがいのある、愛すべき男を全くの自然体で演じ、ニックという男が生きて来た過酷な境遇を、説明的に言葉を費やすことなく雄弁に物語ることに成功している。

thomas_04.jpg

弟(ペーター・プラウボー)は、「ニックの弟」、あるいは、彼の死別した妻との間に授かった子ども"マーティン"の父としか呼ばれず、その名前が呼ばれることはない。ニックと比べて、守るべきものがある弟は、しかし、それ故にだろうか、アルコールよりも更にタチの悪い薬物依存に苦しんでいる。もちろん、まともな働き口はなく、やがてドラッグの売買で生計を立てるようになる。"よくある話"といえばそれまでだが、"世界一幸せな国"と言われる、高福祉社会のデンマーク、コペンハーゲンのうらぶれた街を舞台に展開する、ルー・リードの「ベルリン」を彷彿させる悪夢めいた世界は、「ベルリン」には息づく隙間もなかった、人間が本来生まれ持った"善良さ"を、映画の登場人物のどこかしらに忍び込ませ、本作を血の通った作品たらしめている。

血の通った作品であるからこそ、ここで描かれる悲劇は、観る者に重くのしかかる。"マーティンの父"であることが、彼の存在証明の全てである弟は、少なくとも子どもの前だけでは立派な父親でありたいと願っているが、薬物に蝕まれた彼の身体はもはや彼の意思のままにはならない。掛け替えなのない息子との愛おしい日々の日常が、徐々に崩壊していく。そんな彼らが住まうアパートメントの壁には、ニック・ケイブ&ザ・バッド・シーズの「The Good Son」のポスターが張られている。

thomas_05.jpg

1990年に発表された「The Good Son」というアルバムの中でも最も印象的な曲「The Weeping Song」は、父親と息子のダイアローグによって形成されている。息子は父親に「なぜ皆は泣いている(weeping)の?」と聞き、父親は「人のために泣いているんだ」と答える。次に、息子は「なぜ子どもたちも泣いているの?」と聞き、父親は「子どもたちは泣いていないさ、泣き叫んでいる(crying)だけだよ」と答え、そして「やがて皆泣くことをやめるんだ」と続ける。私には、難しい境遇に生まれ、薬物依存の末に生活を崩壊させていった"マーティンの父"の姿が、やがて泣く事すらしなくなっていくんだと生きることの哀しみを唱ったニック・ケイブの「The Weeping Song」と重なって見える。

しかし、弟の子どもマーティンと同様、"the good son"に生まれついたニックが生来持ち、その後の苛酷な人生の中でも保ち続けている善良さを、終始一貫して擁護し続けるトマス・ヴィンダーベア監督は、その事に同意する観客に対して、ブレッソンが『抵抗 死刑囚の手記より』で示唆した神の恩寵の如き、天の計らいを案じてみせ、人間性に対する首の皮一枚残された希望を最後の最後に示してくれる。


『光のほうへ』について、皆様のご意見・ご感想をお待ちしております。
なお、ご投稿頂いたものを掲載するか否かの判断については、
OUTSIDE IN TOKYO 編集部の判断に一任頂きますので、ご了承ください。





Comment(0)

『光のほうへ』
原題:SUBMARINO

6月4日(土)より、シネスイッチ銀座ほか全国順次ロードショー
 
監督・脚本:トマス・ヴィンターベア
プロデューサー:モーテン・カウフマン
脚本:トビアス・リンホルム
撮影:シャーロッテ・ブルース・クリステンセン
原作:ヨナス・T・ベングトソン
出演:ヤコブ・セーダーグレン、ペーター・プラウボー、パトリシア・シューマン、モーテン・ローセ

2010年/デンマーク/114分/カラー/ドルビーデジタル
配給:ビターズ・エンド

『光のほうへ』
オフィシャルサイト
http://www.bitters.co.jp/hikari/
印刷