『ベルサイユの子』

鍛冶紀子
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昨年の秋、新聞の片隅にギョーム・ドパルデューの訃報を知らせる記事を見つけた。ジャック・リヴェットの「ランジェ公爵夫人」を見て、改めてギョームの魅力に感嘆していたところだったので、その知らせは残念でならなかった。しかしそこに意外な気持ちはなく、自然なまでに彼の死は腑に落ちた。狂気すら感じさせるまなざしと、絶対的な孤高を持する姿。ギョームは常に、そこはかとなく死の香りを感じさせた。生き急ぐ人であろう、今となっては、そう感じていたと言う人も多いと思う。

遺作のひとつとなった本作「ベルサイユの子」でも、ギョームの唯一無二の存在感が強く光っている。

パリの街をさまよう若い母親のニーナと幼い息子エンゾは、ホームレス支援団体によってベルサイユの福祉施設へ連れてこられる。一夜を過ごし再びパリへ戻ろうとする途中、彼らは森へ迷い込み、そこで社会からドロップアウトした男ダミアンに出会う。翌朝、母は息子を残してそっと森を出て行く。思わぬ事態に困惑しながらも、ダミアンは次第にエンゾを受け入れていく。

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かつてレオス・カラックスが「ポンヌフの恋人」で描いたホームレスは、うつろな目で街をさまよい、自由が故に破滅的に暮らしていた。しかし、「ベルサイユの子」では、彼らは淡々と生きるための労働をしている。社会から逸脱した暮らしはたしかに過酷だが、そこに絶望感はなく、むしろ生命力さえ感じさせる。ギョームの鍛えられた肉体や鋭い眼光が、それをより一層際立たせる。

そもそも、ダミアンはなぜドロップアウトしたのか。はっきりした理由は最後までわからない。しかし話の端々から、身を"堕としてしまった"のではなく、その暮らしを"選んだ"であろうことが窺える。(森で生活しながらも、彼は法律を諳んじてみせるし、読書にふけったりもする)つまり、森での暮らしにある種の安息を見いだしているのだ。だからこそ、社会に送り出された幼いエンゾも、森での暮らしに戻りたがるのだろう。しかし、その安息は決して社会からは認められない。そのことをよく知るダミアンは、「もう森には戻らない」と告げる。自らは社会に背を向けながら、エンゾには社会に溶け込むことを求める。ここにダミアンの苦悩と矛盾が浮かび上がる。

社会の中にいる安心感がある一方で、社会にいるが故の生きづらさがある。社会を逸脱したがための過酷さがある一方で、社会を逸脱したからこそ得られる虚栄なき実の暮らしがある。ダミアンが抱える矛盾は、近代から現代に至るまで世界が抱え続けた矛盾でもある。フランソワ・トリュフォーの「野生の少年」では、18世紀後半のフランスを舞台に、野生の少年を通して同様の矛盾が描かれている。

現実は常に矛盾を抱えている。一面的に見れば不幸なことも、多面的に見れば幸せということもある。母親が去ったからエンゾは不幸だったか。否、そこにはダミアンがいた。善悪もまた然り。息子を置き去りにしたニーナは悪か。これもまた、否だろう。「ベルサイユの子」は、説明を加えることなく矛盾をそのままに描いている。大げさな演出もなく、過剰な音楽もなく、太陽の光をそのままに、静かに描く。秩序では括りきれないものがあるのだということを示しながら。そして、あなたはどう思うかと問いながら。


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『ベルサイユの子』
原題:Versailles

5月2日(土)シネスイッチ銀座にて公開
ほか全国順次公開

監督・脚本:ピエール・ショレール
製作:ジェラルディーヌ・ミシェロ
撮影:ジュリアン・イルシュ
編集:マティルド・ミュヤール
音響:イヴ=マリー・オムネ、フランソワ・ムリュ、ステファーヌ・ティエボー
音楽:フィリップ・ショレール
装飾:ブリジット・ブラッサール
衣装デザイン:マリー・スザリ
エグゼクティブ・プロデューサー:フィリップ・マルタン、ジェラルディーヌ・ミシュロ
出演:ギョーム・ドパルデュー、マックス・ベセット・ド・マルグレーヴ、ジュディット・シュムラ、オーレ・アッティカ、オーレ・アッティカ、パトリック・デカン、マッテオ・ジョヴァネッティ、ブリジット・シィ、フィリップ・デュパーニュ

2008年/フランス/113分/ビスタ/ドルビー SRD
© Les Films Pelléas 2008
配給:ザジフィルムズ

『ベルサイユの子』
オフィシャルサイト
http://www.zaziefilms.com/
versailles/


ショレール監督インタヴュー
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