『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』

上原輝樹
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レンブラントの「夜警」やフェルメールの「牛乳を注ぐ女」といった幾多の傑作を擁するオランダ最大の美術館、アムステルダム国立美術館が、2004年、開館以来の大規模改築に向けて動き出した。本作は、その苦難のプロセスを、ホロコーストを扱ったドキュメンタリー作品で知られるオランダの映画作家ウケ・ホーヘンダイクが、2005年から2008年の4年間に渡って関係者を追い、その舞台裏に深くに入り込んだ秀逸なドキュメンタリーである。

映画は、ペドロ・コスタ『ヴァンダの部屋』の舞台となったフォンタイーニャス地区の廃墟をも想わせる、旧美術館館内の解体現場の不吉な映像から始まる。

美術館の設計は、コンペによってスペイン人建築家クルス&オルティスのプランが採択されたのだが、建物の内部は解体され、いよいよ新建築の着工も間近という段階で、一般市民や市民団体から猛烈な反対にあう。美術館側がアムステルダムの市民に新美術館の設計プランをプレゼンテーションする場で、一市民の発した言葉に、今回の設計プランの難しさが象徴的に表現されている。"我々は美術館の素晴らしい通路を見に行くのではなく、そこに飾られている美しい絵画を見に行くのだ"。サイクリストの市民団体は、市民の生活通路を兼ねる新美術館の入口が、市民の"足"である自転車の通行を妨げるとして美術館の提示するリニューアル案に猛烈に反対する。芸術的観点からは野心に満ちた建築家の提案は、それゆえに、市民生活に不便を強いるという印象を与え、権威主義的で傲慢なアイディアとして一部の市民に受け止められ、結局、プランの見直しを余儀なくされる。

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さらに、建築家のもう一つの挑戦、19世紀オランダを代表する建築家ピエール・カイパースの設計の初心に立ち返りながらも、19世紀の建造物に新たな研究棟タワーを付け加えるという野心的なプランも、その地区の市民から構成される委員会や文化・科学省を司る官僚に反対されあえなく潰えてしまう。建築家チームは、このプロジェクトに対する不信感をますます募らせていく。

問題はそれだけではなく、新たな展示の目玉として、新設を目論んでいた20世紀美術のコーナーは、アールヌーボーの作品しか所蔵しておらず、その程度のコレクションが、アムステルダム国立美術館の名に相応しいものか否か、関係者で議論が紛糾する。館長は、相応しいコレクションを展示出来ないのであれば、20世紀の部屋は取り止める以外にないと言い出し、いずれ20世紀美術担当の学芸員は"もはや洗い古されたTシャツのような気分だ"と言い残し美術館を去ってゆく。

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美術館収蔵作品の中でも至宝というべき、レンブラントの「夜警」は、ピーター・グリーナウェイがこの謎が多い作品をテーマに独自の解釈で映画を丸ごと1本作ってしまったことがあったなどという事をわざわざ思い出すまでもなく、17世紀のオランダにおいてアムステルダムの街を護る自警団の姿を描いた、あまりにも有名な傑作絵画だが、この作品をどこにどのように展示すべきか、というエッセンシャルな問題もなかなか解決の糸口は見えてこない。もっともこうした、審美上のテクニカルな問題は、本作で次から次へに山積する行政上の難問に比べれば、随分微笑ましいものに見えてくる。何しろ、「市民のための美術館をつくるのだ」と意気揚々と私たちの目前に登場した館長ドナルド・デ・レーウすら、行政や市民、関係者との闘いに次ぐ闘い、その結果生じた何度にも渡る開館時期の延期に痺れを切らし、ついに美術館を去ることになってしまうのだから、、、。しかし、ウケ・ホーヘンダイクのカメラは、そうした美術館上層部の悲喜劇こもごものドラマにばかり目を奪われることなく、絵画の修復という微細な作業に没頭する修復家たちの指先をクローズアップで捉えることを忘れず、「美術館は私の息子だ」と語り、サイクリスト団体の抗議活動を実力で阻止せんとする"夜警"の如き働きを見せる警備員の寡黙な姿も逃さず捉えており、その繊細な視線が静かな深い感動を誘う。

"国立"の美術館故に、ここまでカメラが入れる程、その製作プロセスが透明化されており、それ故に、多くの市民がこの一大国家プロジェクトに対して言いたいことを言えるという"民主性"こそが、このプロジェクトの順風な進行を妨げているのは誰の目にも明らかなことだが、それこそが正に"民主主義"という意思決定プロセスの本質を表しているということを、本作は図らずも露わにしている。つまり、民主主義は現在取りうる最もマシな政治手段であるかもしれないが、それによって決定されることが必ずしも最高の選択であるとは限らないということを、監督のウケ・ホーヘンダイクすら意図しようもない事態の推移の中、対象を丁寧に撮影し、緻密に編集するというオーソドックスなドキュメンタリー映画の制作手法で炙り出しているところに、本作の素晴らしさがある。多くの優れたドキュメンタリー映画は、映画作家の意図を超えて生起してくる。そこでは、映画作家は、ドキュメンタリー映画という"手法"に奉仕することで、作品は恩寵に満ちたものとなり、時にはそれが社会に還元される。オランダでは、この映画がきっかけになり、市議会に与える権力の度合いについて、政治システムの構造的な見直しが始まったという。

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もちろん、私たち日本人が、本作にとても親近感を覚えてしまうのは、アムステルダム美術館における初の日本彫刻の展示物として購入された金剛力士像の顔が、プロレスラーのストロング金剛の顔にあまりにも酷似している、などという今更ながらの発見であるはずもなく、近年私たちの意識の表層に浮かび上がって来た沖縄の基地問題が象徴する、日本人にとって重要な問題を民主的なプロセスで意思決定していくことの困難の真只中に私たちも立たされているという自覚ゆえに違いない。それは、成熟しやがて衰退していく社会の縮図が、ペドロ・コスタが描く、かつての海洋大国ポルトガルの一地区と、ヨーロッパで最も"自由"が謳歌されている街といわれるアムステルダム、そして、かつての経済大国、未だ官僚機構の呪縛から脱せられず、私たちなりの"民主主義"の姿を見出せずにいるこの国の現在がそこに被さって見えてくる不吉さでもあるのだ。


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Comment(1)

Posted by 山内 | 2014.02.27

上原輝樹様

はじめまして。
大変興味深いレビューでした。

レンブラントやフェルメールの名画を集めた映画化と思い購入しましたが、まったく予想と異なる内容に面食らった者の一人です。しかし、非常にそそる内容の映画でした。
上原さんのおっしゃる通り、民主主義的な意思決定のプロセスを描き、その限界を浮き彫りにした作品だと感じました。特に、終盤の館長と学芸員の温度差が印象に残っています。館長は「他のみんなは何と言おうが、私はやりきったよ」などと言っていますが、学芸員の一人は「みんなが寄ってたかってかき回し、彼の情熱を削いでしまったんだ。残念だよ。」という風に評しています。セリフはうろ覚えですが。つまり、プロジェクトの終焉は、モノが完成した時でなく、自身のモチベーションが失われた時が、その人にとっての終焉なのだと言われている気がしました。改修工事の終了を待たずして、この映像を映画として発表した理由がそこにあるのではないかと思っています。あくまで館長(とこの学芸員)の視点からの話になりますが。
私も新人の社会人として大なり小なり組織で動くことがあります。なので、この館長みたいに大きなうねりに翻弄されて自分を無駄に消費したくないなあ、と思いますし、単にこの館長がダメダメで根回しなどが下手なだけだったんじゃないか言う人もいるんだろうなあ、とも思います。しかし、個人の感情に対して扱う問題の範囲が操縦不可能なまでに膨れ上がっていく様子を実感し、世の中の大きな欠陥を実感しました。

『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』
原題:THE NEW RIJKSMUSEUM

8/21(土)より渋谷ユーロスペースにて公開、全国順次

監督:ウケ・ホーヘンダイク
脚本:ハンス・ドルトマンス、ウケ・ホーヘンダイク
撮影:サンダー・スヌープ
録音:マーク・ウェスナー
編集:ハイス・ゼーヴェンベルヘン
音響:マーク・グリン、ロナルド・ヴァン・ディーレン
音楽:エルコ・ヴァン・デ・メーベルフ、クリスティアーン・ヴァンヘメルト
製作・提供:ピーター・ファン・ハイステ
出演:アムステルダム国立美術館の館長、学芸員、警備員、建築家(クルス&オルティス)ほか

2008年/オランダ/117分/カラー/デジタル
配給:ユーロスペース

©PvHFilm 2008

『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』
オフィシャルサイト
http://www.ams-museum.com/
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